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2015年8月11日 (火)

「国分寺」多元論のための年表

九州王朝による旧「(九州の)東大寺・国分寺・国分尼寺」建設
=略して「国分寺」多元論のための年表を作っておこう。

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(1) 6世紀前半(517年)から中国の混乱に乗じ,倭国が「九州年号」をスタートさせる。
以降,大和政権に滅ぼされるまで,180年以上制定される。大化・白雉・朱鳥も含む

(2) 589年,中国・南朝の滅亡(親分が滅ぶ)→(一の子分である)九州王朝(倭国の天子・
多利思北孤)による国内の整備=六十六国の「分国」。普通これは,聖徳太子の業績とされる

(3) 7世紀初頭,多利思北孤による遣隋使の派遣。
「日出ずる処の天子,日没する処の天子」の手紙。これも普通,聖徳太子の手紙とされる。
しかし,『隋書』には「阿蘇山あり」と。当然この手紙は,隋の煬帝の怒りを買う

(4) 7世紀前半,九州王朝のよる旧「(九州の)東大寺・国分寺・国分尼寺」の建設

(5) 7世紀半ば,唐・新羅との戦いに備えて,九州王朝による日本古代ハイウェー
(東山道武蔵路等)=軍用道路の建設

(6) 662,唐・新羅と白村江の戦い→大和が離脱し完敗→政権交代(九州から大和へ)。
九州王朝の天子(皇太子?)・薩夜麻(「薩野馬」と悪口?)も長年間捕虜に

(7) 701年,新政権による新年号「大宝」建元

(8) 712年,九州王朝の豪族の悪口も掲載した「古事記」の編纂→のちに「日本書紀」に吸収される。
ところが,鎌倉時代に写本が発見されてしまう。「日本書紀」との齟齬(そご)が・・・

(9) 720年,「日本書紀」の編纂(へんさん)で歴史の改竄(かいざん)。九州王朝は無き物に・・・

(10) 8世紀半ば,大和政権による新「(大和の)東大寺・国分寺・国分尼寺」の建設

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

今朝メールチェックをしていたら,大変なことになっていました。
いいえ,悪い話ではありません。
古賀さんが,興味を持って下さった「国分寺」多元論で,
私の応援・援護射撃を激しく!していただけていたのです。
以下,長文を転載させていただきます。

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古賀達也の洛中洛外日記
第1019話 2015/08/10
「武蔵国分寺跡」の不可解

肥沼孝治さん(古田史学の会・会員)から教えていただいた
「武蔵国分寺」の不思議な遺構について、調査検討を進めています。
今回、特に参考になったのが国分寺市のホームページ中の武蔵国分寺資料館のコーナーでした。
その中のコンテンツ「武蔵国分寺の建立」(武蔵国分寺資料館解説シートNo.4)によれば、
次のように創建過程を解説されています。

まず、「3種の区画の変遷があったことなどがわかりました。」として、次のように記されています。

区画1:塔を中心とした真北から約7度西に傾く伽藍
区画2:区画1の西側の溝を埋め、中心を西へ200m移動させ西へ範囲を拡大、尼寺の区画も整備
区画3:寺院地区画を東山道まで延長する拡充整備

以上のように区画の段階を示し、次のように造営時期の編年をされています。

創建期(8世紀中頃~)
国分寺建立の詔によって造営が開始される時期
○区画1の寺院地が定められ、中心付近に塔を造立

僧・尼寺創建期(~8世紀末)
僧・尼寺の主要な建築物が造られる時期
○区画2もしくは区画3で、僧・尼寺の創建期および僧尼寺造寺計画の変更
○区画2もしくは区画3で、造寺事業完了

整備拡充期(9世紀代)
承和12年(845)を上限とする整備拡充期で、塔が再建されるもっとも整備されていた時期
(以下、省略します)

以上のような解説がなされているのですが、わたしには不可解極まりない説明に見えます。
それは次のような点です。

疑問1.武蔵国分寺の塔は回廊の外側(東側)にある。
普通、塔は金堂や講堂などと共に回廊内にあるものである。

疑問2.区画1の説明として「塔を中心とした真北から約7度西に傾く伽藍」とあるが、
その中心に建てられた塔はほぼ南北方向に主軸を持ち、
その西隣に近年発見された「塔2」も同様に南北方向であり、
その方位は「真北から約7度西に傾く伽藍」配置との整合性が無い。

疑問3.寺院建立にあたり、最初に「塔」を造営するというのも不自然である。
しかも、金堂とは別に回廊の外側に方位も異なって造営したりするだろうか。

疑問4,仮にこの順番と編年が正しいとした場合、塔を造営してから50年近く後に、
金堂などの主要伽藍が造営されるというのも奇妙である。
普通、金堂と塔は同時期に造るものではないのか。

ざっと読んだだけでもこれだけの疑問点が出てきます。
失礼ながら同資料館の「解説」は不可解極まりないと言わざるを得ないのです。
こうした不思議な状況は、肥沼さんが指摘されたように、
九州王朝による多元的「国分寺」建立説という仮説を導入する必要がありそうです。(つづく)

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これは,うれしすぎる応援・援護射撃です。
ということで,「年表」のコメント欄に収録させてただきました。
古賀さん,ありがとうございました!

これが国分寺多元論!?
はじめて聞きました。
にわかには信じられない思いです。
九州の人間としては、
嬉しいというか、
腹立たしい(大和に滅ぼされたことが)というか、
複雑な気分です。
これからもいろいろ教えていただきたいと思います。

平野さんへ
コメントありがとうございます。

「国分寺」多元論に興味を持って下さり,ありがとうございます。
私は25年ほど前から,古田武彦さんという歴史研究家に師事しておりまして,
その古田氏の主張が「九州王朝説」とか「多元的古代」と呼ばれるものです。
(彼の『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』『盗まれた神話』は,
古代史三部作と呼ばれ,今はミネルヴァ書房から出版されています)

縄文時代・・・各地の黒曜石の出土地を中心に「くに」が作られていた
弥生時代・・・前半は出雲が中心(神無月=他の国と神在月=出雲)
       後半は九州中心(「国譲り」という武力制圧で,出雲を倒す)
以降,古墳時代,飛鳥時代と九州(太宰府のある北部九州)が中心=倭国(わこく)。
朝鮮半島や中国の情勢により,中心地は福岡県内を移動)

662年の白村江の戦いにおいて,唐・新羅の連合軍と戦い,大敗北
(実は,大和もいっしょに戦うはずだったが,直前に離脱・・・唐との密約?)
つまり,これを機に,筑紫大地震も手伝い,九州王朝は滅亡し,
日本書紀ではその存在さえ消されることになったというわけです。

(1) 九州王朝によって最初の「国分寺」が作られる ← この研究をしているのです
(2) 662年の白村江の戦いによって九州王朝が滅亡
(3) 大和政権によって現在の「国分寺」が作られる

たの社MLでも,古田氏の九州王朝論を知っている人は少なくないと思います。
平野さんもぜひ!

国分寺だけでなく,歴史書も,地理書も,歌集(万葉集)も,
先に九州王朝が作っていたと私たちは考えています。

おもしろそうです。3部作探して読んでみます。

平野さんへ
コメントありがとうございます。

古田氏の本は,アマゾンからすぐに注文できますよ。
私は新任で〈仮説〉ど出会って人生が2倍楽しくなりましたが,
30代で〈古田史学〉を知ってさらにその2倍になったと思っています。

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