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2015年8月19日 (水)

古賀達也さんの多元的「国分寺」論 その後(2)

古賀さんの上記の話は,
その後も研究会員との連絡を取りつつ,
着実に前進している。
ついに「7度の傾きのズレ」の謎の解明にも至った!
そのスリリングな内容の
3号分を転載させていただきますね。

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第121号 古田史学の会「洛洛メール便」 2015年08月15日

前略。 「古田史学の会」の竹村です。
洛洛メール便をお届けします。
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古賀達也の洛中洛外日記
第1025話 2015/08/15
九州王朝の「筑紫国分寺」は何処

「洛中洛外日記」1014話(2015/08/03)において、
九州王朝説への「一撃」という表現で、多利思北孤の時代(7世紀初頭)の
北部九州に王朝を代表するような寺院遺跡群が見られず、
その数でも近畿に及ばないことを指摘しました。
この問題は九州王朝説にとって深刻な課題です。
この課題は「国分寺」多元説に対しても同様の「一撃」となっています。
告貴元年(594年)に「聖徳太子」(多利思北孤か)が諸国に国分寺建立を詔したとすれば、
この時期は太宰府遷都(倭京元年、618年)以前ですから、九州王朝は筑後遷宮時代となるのですが、
筑後地方に「聖徳太子」創建伝承を持ち、
九州王朝を代表するような大型寺院の痕跡を、わたしは知りません。
現在知られている「筑後国分寺跡」は久留米市にありますが、
それは聖武天皇の時代(8世紀中頃)の「国分寺」とされており、
九州王朝による「国分寺跡」ではないように思われます。
この問題について、九州王朝説論者としてどのように解決するかが、問われています。(つづく)
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第122号 古田史学の会「洛洛メール便」 2015年08月17日

前略。 「古田史学の会」の竹村です。
洛洛メール便をお届けします。
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古賀達也の洛中洛外日記
第1026話 2015/08/15
摂津の「国分寺」二説

「洛中洛外日記」1024話では、
大和に二つある「国分寺」を「国分寺」多元説で考察しましたが、
同類のケースが摂津国にもあるようです。
摂津には九州王朝の副都前期難波宮があることから、
九州王朝副都における「国分寺」とは、どのようなものかが気になっていました。
そこでインターネットなどで初歩的調査をしたところ、摂津には次の二つの「国分寺」がありました。
有力説としては、大阪市天王寺区国分町に「国分寺」があったとされています。
当地からは奈良時代の古瓦が出土していることと、その地名が根拠とされているようです。
しかし、国分寺の近隣にあるべき「摂津国分尼寺」(大阪市東淀川区柴島町「法華寺」が比定地)
とは約9km離れており、この点に関しては不自然です。
もう一つは「長柄国分寺」とも称されている大阪市北区国分寺の「国分寺」です。
寺伝では、斉明5年(659年)に道昭が孝徳天皇の長柄豊碕宮旧址に「長柄寺」を建立し、
後に聖武天皇により「国分寺」に認められたとあります。
ちなみに、この「長柄国分寺」は国分尼寺とは約2.5kmの距離にあり、
位置的には天王寺区の「国分寺跡」より穏当です。
この摂津の二つの「国分寺」も九州王朝説による多元的「国分寺」建立に遠因すると
考えてもよいかもしれません。
もしそうであれば、上町台地上に「倭京2年(619年)」に「聖徳」により建立された
「難波天王寺」(『二中歴』による)に、より近い位置にある天王寺区の「国分寺跡」が
九州王朝系「国分寺」であり、北区の「長柄国分寺」は寺伝通り近畿天皇家の「国分寺」
と考えることもできます。
この二つの「摂津国分寺」問題も両寺の考古学編年などを精査のうえ、
九州王朝説に基づきその当否を判断する必要があります。(つづく)
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第123号 古田史学の会「洛洛メール便」 2015年08月18日

前略。 「古田史学の会」の竹村です。
洛洛メール便をお届けします。
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古賀達也の洛中洛外日記
第1027話 2015/08/16
武蔵国分寺の方位は「磁北」か

「洛中洛外日記」1021話(2015/08/12)で、「武蔵国分寺」の設計思想として、
「七重の塔が、傍らを走る東山道武蔵路と平行して南北方位で造営されているにもかかわらず、
その後、8世紀末頃に造営されたとする金堂などの主要伽藍が
主軸を西に7度ふって造営された理由が不明。」と記したのですが、
それを読まれた関東にお住まいのYさん(古田史学の会・会員)から、
大変重要なご指摘のメールをいただきました。
それは、「武蔵国分寺」の金堂などの主要伽藍の方位は「磁北」とのことなのです。
Yさんのご指摘によれば、東京の磁北は真北方向より西へ7度ふれているとのことで、
「武蔵国分寺」主要伽藍の方位のずれと一致しているのです。
これは偶然の一致とは考えにくく、「七重の塔」や東山道武蔵路は真北に主軸を持つ設計ですが、
「武蔵国分寺」主要伽藍造営者はそれらとは異なり、「磁北」を主軸として設計したのです。
従って、設計の基礎となる基本方位の取り方が、たまたま7度ふれていたのではなく、
磁北採用という設計思想が計画的意識的に採用された結果と考えられます。
古代寺院や宮殿の主軸は天体観測による真北方位(北極星を基点としたと思われます)が
採用されているのが「当然」だと今まで考えてきたのですが、
Yさんのご指摘を得たことから、「磁北」を採用したものが他にもあるのか、
もしあればそれは九州王朝から近畿天皇家への権力交代に基づくものか、
あるいは地域的特性なのかなどの諸点を再調査したいと思います。
読者や会員の皆様のご教導により、多元的「国分寺」建立説の研究も着実に前進しています。
もちろん、まだ結論は出せませんが、どのような歴史の真実に遭遇できるのか、
ますます楽しみな研究テーマとなってきました。(つづく)
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