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2015年8月24日 (月)

古賀達也さんの多元的「国分寺」論 その後(4)

まだまだ,古賀さんのお話は続きます。
なにしろリアルタイムでの研究です。
そして,インターネットの時代ですからね。
(おっと「夢ブログ」も同様でした(笑))

さて,今回の古賀さんのお話の中には,
またまた私(肥さん)のことが出てきます。
しかし,その中で私の長所と短所も浮かび上がってきます。
まあ,それは事実だから仕方ないのですが,
忙しい古賀さんのお仕事や研究の足を引っ張り,
「ヒイキの引き倒し」になるのではないかと,
密かに思っている次第です。(と言いながらも,書いていますが)
古賀さんの励ましに支えられながら,
未熟な私の研究も少しずつ成長できたらうれしいです。
では,またまた長文転載します。

※ 「古代史の話は難しい。ついていけない」という方は,
遠慮なく読み飛ばして下さいね。
古田武彦さんから初めて多元的古代の話を聞いた時,
私も「目が回り,頭が混線したこと」を思い出します。

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古賀達也の洛中洛外日記
第1030話 2015/08/20

「磁北」7度西偏説の痕跡
 「洛中洛外日記」1029話(2015/08/19)『「磁北」方位説の学問的意義』で述べましたように、
「武蔵国分寺」の主要伽藍の主軸が真北から西に7度ふれている理由を「磁北」とした場合、
次の検証課題がありました。

1.真北と磁北のふれは、地域や時代によって変化するので、
「武蔵国分寺」建立の時代の「磁北」のふれが
「7度西偏」であったことをどのように証明できるのか。
2.「磁北」を測定する方位磁石(コンパス)の日本列島への伝来時期と
使用時期が古代まで遡ることを、どのように証明できるのか。

 この二つの課題について、とりあえず1については次の方法で証明可能、
あるいは有力仮説にできると考えました。
すなわち、8世紀に建立された寺院や遺構に同様の傾向が見られれば、
それら全てを偶然の一致とすることは困難となり、
意図的に「7度西偏」させたとする仮説が有力となります。
その結果、それを当時の「磁北」の影響と見なす説は妥当性を増します。
もちろん「7度西偏」の他の有力な根拠があれば、
どちらがより妥当かという相対的論証力を比較する作業へと移ります。
しかし、他に有力な根拠がなければ、「磁北」とする仮説が最有力説となるわけです。
 このような考え方から、全国の7~8世紀の遺構の方位を調査しなければならない
と思っていたやさきに、肥沼さんから、またまた驚くべき情報が寄せられたのです。
詳細は肥沼さんのブログ「肥さんの夢ブログ」を見ていただきたいのですが、
インターネット検索で古代建造物の方位を調査された結果、
「7度西偏」の主軸方位を持つものが少なからず見いだされた
とのことなのです。次の通りです。(順不同)

【「7度西偏」の寺社など】
○常陸国の国分寺・国分寺跡
○気比神宮
○太子山から斑鳩寺への道。
○斑鳩寺(揖保郡太子町)堂塔伽藍すべて。
○稗田神社(揖保郡太子町)
○中臣印達神社(たつの市揖保町中臣・粒丘)
○石上神宮(奈良県天理市布留)
○広峯神社(姫路)
○増位山随願寺(姫路)
○麻生八幡宮(姫路)
○松原八幡宮(姫路市白浜)
○法隆寺(奈良・生駒郡・斑鳩町)
○龍田神社(奈良・斑鳩町)
○島庄春日神社?あすか夢耕社(奈良・明日香村岡寺北)
○広隆寺(京都市右京区太秦)
○百済王神社・百済寺跡(枚方市中宮?)

 以上のようです。ネット検索によるものですから、
学問的には現地調査・発掘調査報告書などでの確認が必要ですが、
これだけそろうと全て偶然とするのは不可能と言わざるを得ません。
また、造営年代も異なっており、どの時代に「7度西偏」を採用されたのかも
検討が必要であることは言うまでもありません。
 この中で、わたしが特に注目したのが「法隆寺」です。
全焼した「若草伽藍」は南北軸から20度ほどふれており、
およそ真北を意識した寺院とは考えられませんが、
現存する法隆寺は8世紀初頭の和銅年間頃の「移築」と考えられますから、
近畿天皇家が九州王朝の寺院を移築する際、北を意識して移築したものの、
「武蔵国分寺」と同様に西へ7度ふっていることがわかります。
すなわち、8世紀において近畿天皇家は中枢寺院(法隆寺)の移築において、
「7度西偏」方位を国家意志として採用し、
同様に8世紀後半に造営された「武蔵国分寺」もその国家意志に従ったと考えられるのです。
 他方、前期難波宮(九州王朝副都)や藤原京、平安京は真北方向を採用し、
「7度西偏」ではありません。
これらも国家意志に基づく都や宮殿の造営ですから、
この設計思想の違いは何によってもたらされたのでしょうか。不思議です。(つづく)

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古賀達也の洛中洛外日記
第1031話 2015/08/22

多元的「国分寺」研究のすすめ(1)
 このところ、「洛中洛外日記」やメールで進めている多元的「国分寺」研究ですが、
学問の方法ともかかわって多方面への進展波及が進んでいます。
古田学派における学問研究の方法、進め方についても意見を交わしており、
ネット社会ならではの学問環境と言えそうです。
 このテーマに関して会員の皆さんからメールをいただいており、たいへんありがたく思っています。
「お詫びメール」もときおりいただくのですが、学問研究途上の「過誤」は発生するのが当たり前で、
特に誰もやっていない最先端研究は理系文系を問わず、
失敗や誤りがあるのが当たり前で、そのことで学問研究が発展するのです。
「答え」が無い最先端研究で苦しんだ経験をお持ちの方ならご理解いただけるはずです。
 わたしも企業の製品開発で納期に追われ成果を要求される「地獄の苦しみ」を何年も味わい、
体調がおかしくなるほどでした。
しかも企業機密のため、誰にも相談できないし、誰もやっていない開発ですから、
社内に相談する相手もいないという孤独な毎日でした。
ですから「STAP報道事件」で、そのような最先端研究の苦しみなど味わったこともない
マスコミや評論家が小保方さんや笹井さんを犯罪者であるかのごとくバッシング(集団リンチ)を
続けるのを見て、心から憤ったものです。
 昨日も、肥沼孝治さん(古田史学の会・会員、所沢市)から「お詫び」メールをいただきました。
「法隆寺」の方位がネット検索により「7度西偏」と紹介したが、
自ら文献などで調査したところ、3~4度であったとのことでした。
しかも、肥沼さんは法隆寺に直接電話して確認され、わたしに報告されたのでした。
こうした「聞き取り調査」は現地調査に準ずるもので、立派な研究姿勢です。
 わたしからは、ネット検索は概略をおさえる程度のもので、
学問的には実地調査や学術論文に依らなければならないと返信しました。
いわばネット検索は「広く周囲の意見を聞く」という作業であり、
それらの意見が妥当かどうか、仮説として検証するに値するかどうかは、別の問題です。
ですから、不十分な「情報」や誤った「情報」があることも当然です。
専門家の学術論文でも誤りがあることも少なくありませんから、このリスクは避けられません。
しかしそれでも「広く周囲の意見を聞く」(今回は「ネット検索」)という作業は
学問研究にとって大切な作業であり、それにより早く真実に近づくことも可能となり、
自らの誤りにも気づきやすいという学問上のメリットがあります。
「例会」活動にもこうした目的や利点があります。
 次に研究・考察過程を「洛中洛外日記」のようなブログで
リアルタイムに発信する目的やメリットについて説明します。(つづく)

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古賀達也の洛中洛外日記
第1032話 2015/08/22
多元的「国分寺」研究のすすめ(2)

「洛中洛外日記」1031話で紹介しました肥沼さんからの「お詫び」メールに対して。
わたしは返信で次のような言葉も付け加えました。
仮説検証過程の紆余曲折過程を明白にしながらブログでの検証作業を進めることで、
古田学派全体に寄与できることを願っていると。
そこで、今回は学問研究において、学術論文や著作での発表と、
インターネットでのブログ発信の学問的性格の違いについて、
わたしの考えを説明させていただきます。

インターネット検索は「広く周囲の意見を聞く」という作業であることに対して、
わたしのブログでの発信は「自説に対して広く周囲の意見を聞く」という意味合いが含まれています。
すなわち、学術論文や著作のように、自説を広く発表するという目的とは少し異なり、
自らの仮説(アイデア・思いつき)に対して、リアルタイムで読者に意見を聞くという目的が大きいのです。
いわば読者との「対話」という性格を色濃く有しています。
今回の多元的「国分寺」研究においては、この「対話」が極めて有効に作用し、
わたしの学問的認識や問題点の所在などが、
一人で考察するよりも何倍も早く広く深く明らかになっています。
これこそ、学問的対話の真骨頂でしょう。
例会などでは参加者が地域的時間的に制約されますが、
ネットではほぼ無限に対象者が広がり、それだけ多くの知識が集約され、
誤りや誤解の訂正もスピーディーとなります。
こうしたネットの特長を「洛中洛外日記」(洛洛メール便)という一方的発信ではありますが、
それにメールでの交信という機能がプラスされることにより、
「インターネット例会」のような空間が実現しています。
将来的にはSNSを利用して、もっと幅広い「交流」の場を持てればと願っています。
もし、従来のように私が何ヶ月も一人で考察研究し、会報などで研究発表するというスタイルでは、
これだけの速度で研究が進展することは不可能でした。
もちろん論文発表という形式は学問研究では普遍的価値を持ちますが、
それとは少し異なったブログでの発信は新たな研究スタイルを可能としました。
そうした意味でも、今回の多元的「国分寺」研究の成果が期待されるところです。
これからも未知の可能性を秘めたインターネットを駆使した共同研究という分野に挑戦したいと思います。

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