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2015年8月15日 (土)

古賀達也さんの多元的「国分寺」論 その後

古賀達也さんの多元的「国分寺」論が,
竹村さんの発行する「洛洛メール便」にのって,
次々と古田史学の会員のもとに届いています。
もはや,その勢いは止められないほどです。

しかし,これほどの大論です。
確実に,慎重に,論証を積み重ねていかなければなりません。

失礼を省みず,3本連続で,また転載させていただきます。
この件について,私自身も関っているし,
また関心のある方も少なくないと思いますので・・・。

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第118号 古田史学の会「洛洛メール便」 2015年08月15日

前略。 「古田史学の会」の竹村です。
洛洛メール便をお届けします。
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古賀達也の洛中洛外日記
第1022話 2015/08/13
告貴元年の「国分寺」建立詔

「洛中洛外日記」718話(2014/05/31)において、
九州年号(金光三年、勝照三年・四年、端政五年)を持つ
『聖徳太子伝記』(文保2年〔1318〕頃成立)の
告貴元年甲寅(594)に相当する「聖徳太子23歳条」の
次の「国分寺(国府寺)建立」記事を紹介しました。

「六十六ヶ国建立大伽藍名国府寺」(六十六ヶ国に大伽藍を建立し、国府寺と名付ける)

そして、『日本書紀』の同年に当たる推古2年条の次の記事が九州王朝による
「国府(分)寺」建立詔の反映ではないかと指摘しました。

「二年の春二月丙寅の朔に、皇太子及び大臣に詔(みことのり)して、
三宝を興して隆(さか)えしむ。
この時に、諸臣連等、各君親の恩の為に、競いて佛舎を造る。
即ち、是を寺という。」

以上の考察は後代史料に基づいたものですが、
今回、検討を続けている「武蔵国分寺」についていえば、
「七重の塔」の造営を7世紀後半と考えると、
告貴元年(594)より半世紀以上遅れてしまいます。
そうすると、九州王朝による「武蔵国分寺」建立とする仮説は、
文献(史料事実)と遺跡(考古学的事実)とが「不一致」となり、
ことはそれほど単純ではなかったのかもしれません。
もちろん、全国の「国分寺」が一斉に同時期に造営されたとも思えませんから、
武蔵国は遅れたという理解もできないことはありません。
しかし、そうであっても半世紀以上遅れるというのは、ちょっと無理がありそうです。
「武蔵国分寺」の多元的建立説そのものは穏当なものと思われますが、
あまり単純に早急に「結論」を急がない方がよさそうです。(つづく)
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第119号 古田史学の会「洛洛メール便」 2015年08月15日

前略。 「古田史学の会」の竹村です。
洛洛メール便をお届けします。
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古賀達也の洛中洛外日記
第1023話 2015/08/14
「国分寺式」伽藍配置の塔

肥沼孝治さん(古田史学の会・会員、所沢市)からのメールがきっかけとなって
勉強を開始した「武蔵国分寺」の多元的建立説ですが、
おかげさまでわたしの認識も一歩ずつ深まってきました。
お盆休みを利用して、古代寺院建築様式について勉強しているのですが、
特に「国分寺式」と呼ばれる伽藍配置について調査しています。
国分寺は大和朝廷によるものと捉えていたこともあり、
この「国分寺式」という伽藍配置のことは知ってはいたのですが、あまり関心もないままでした。
今回、あらためて確認したのですが、回廊内に金堂と共に塔を持つ一般的な古代寺院様式とは異なり、
「国分寺式」とされる伽藍配置は回廊で繋がっている金堂と中門の東南に塔が位置しています。
各地の国分寺がこの伽藍配置を採用していますが、
回廊内に塔がある国分寺もあり、全ての国分寺が同一様式ではありません。
こうした「国分寺式」という視点から「武蔵国分寺」を見たとき、
金堂や講堂などの主要伽藍の「東南」方向に「塔」があるという点については、
「国分寺式」のようではありますが、
「武蔵国分寺」の場合は塔が離れており、方位も異なっていることは何度も指摘してきたとおりです。
ですから、位置も離れ方位も異なった主要伽藍と塔をいびつな外郭で囲み、
かなり無理して「国分寺式」もどきの寺域を「形成」しているとも言えそうです。
ちなみに、聖武天皇による代表的な国分寺である奈良の東大寺は、
金堂・中門の南側の東と西に塔を有すという伽藍配置で、
諸国の国分寺よりは「格が上」という設計思想が明確です。
中でも大仏の大きさは、国家意志の象徴的な現れです。(つづく)
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第120号 古田史学の会「洛洛メール便」 2015年08月15日

前略。 「古田史学の会」の竹村です。
洛洛メール便をお届けします。
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古賀達也の洛中洛外日記
第1024話 2015/08/14
大和の「国分寺」二説

「洛中洛外日記」1013話で、「聖武天皇による代表的な国分寺である奈良の東大寺」と記したところ、
早速、水野さん(古田史学の会・顧問)や小林嘉朗さん(古田史学の会・副代表)からメールをいただきました。
中でも小林さんからの次の情報は衝撃的でした。

「大和国は、橿原市八木にある国分寺がその法灯を伝えていると言うのですが?
(昨年12月のハイキングで訪れた)」

というのも、九州王朝が告貴元年(594年)に「聖徳太子」(多利思北孤か)により
「国府(分)寺」建立の詔を発したとしたら、
当然のこととして66ヶ国の一つである大和国にも、
聖武天皇による東大寺とは別に九州王朝系「国分寺」がなければならないと考えていたからです。
そうした疑問を抱いていたときに、なんとタイムリーな小林さんからのメールを見て、
衝撃が走ったのです。
しかも場所が奈良市ではなく橿原市というのも驚きでした。
告貴元年頃であれば、近畿天皇家の宮殿(大和国府)は飛鳥にあったはずですから、
その「国分寺」も飛鳥にあったのではないかと、論理的考察の結果として考えていたからです。
ですから九州王朝系「大和国分寺」が橿原市の国分寺であっても、
まったく不思議ではありません。
すなわち、「国分寺」建立多元説は大和国にも適用されなければならないからです。
こうなると、「武蔵国分寺」とともに橿原市の「大和国分寺」の現地調査にも行かなければなりません。
特に遺構や出土瓦の編年を調査する必要があります。どなたかご一緒していただけないでしょうか。(つづく)
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