« 協会長杯・県大会の抽選会 2015 | トップページ | 昨日の部活動 4/19 »

2015年4月20日 (月)

学問は「多数決より論証」

「新古代学の扉」サイトの「古賀達也の洛中洛外日記」の
最近のもの(第922話 2015/04/14)で,
「『新撰姓氏録』「佐伯本」と学問の方法」という文章が出ている。

私はこの文章がとてもいいと思ったので,後に全文付けさせていただくが,
学問は「多数決より論証」とも言うべきその内容は,
仮説実験授業における「多数決より実験」と同じで,
きわめて自然科学的な方法論であり,
別な言い方をすれば「少数派が勝てる唯一の道」でもあるのだ。
私はこれまで, 仮説実験授業と古田史学という
一見異質のものに見える両者を追いかけてきたのは,
この方法論の故なのかと今は思う。

そういえば,仮説実験授業に関っている先生たちには,
意外と古田本のファンが少なくないのだ。
「類は友を呼ぶ」ということだろうか。(笑)
では,古賀さんの文章をどうぞ!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

『新撰姓氏録』「佐伯本」と学問の方法

20年ほど昔のことですが、わたしが『新撰姓氏録』の研究をするために
どのテキストを使用するべきか、古田先生にご相談したことがあります。
比較的手に入りやすく、各写本や版本の解説がある佐伯有清さんの
『新撰姓氏録の研究 本文篇』(吉川弘文館)を用いようとしたのですが、
そのとき古田先生から文献史学にとってとても大切なことを教えていただきました。

それは、同書は各写本・版本間に文字の異同などがある場合、
佐伯さんの判断でそれぞれの諸本から取捨選択されており、
言わば『新撰姓氏録』「佐伯本」ともいうべきものであり、
文献史学における史料批判の基本から見れば
テキストとして使用すべきではないと指摘されたのです。
すなわち、文献史学において諸本間に文字や記述の異同がある場合は、
現代人の認識や判断で取捨選択するのではなく、
史料批判や論証の結果、最も原文に近いと判断できる写本・版本をテキストとして
依拠しなければならないという学問の基本姿勢について注意されたのでした。

わたしはこのとき古田史学の学問の方法で
最も大切なことの一つである史料批判について学んだのです。
このことは、後の研究にも役立ちました。
一例をあげれば、数ある九州年号群史料の中で、
最も原型に近いと判断される『二中歴』を重視するということも、
このときの経験によるものでした。
初期の九州年号研究において、なるべく多くの史料を集め、その中で最も多い年号立て、
あるいは最大公約数的な年号立てを九州年号の原型と見なす
という手法が盛んに行われましたが、古田先生は終始この方法を批判され、
史料批判に基づいて最も成立が早く、原型を保っている『二中歴』に依拠すべきとされたのです。
すなわち、学問は多数決ではなく、論証に依らなければならないのです。
そして、このことが正しかったことは、
現在までの九州年号研究の成果により確かめられています。

思えば古田先生は『「邪馬台国」はなかった』のときから、
この立場に立たれていました。
『三国志』版本の中で紹煕本が最も原型を保っていることを論証され、
その紹煕本に基づいて研究をされたことは、
古田学派の研究者や読者であればよくご存知のはずです。
『万葉集』でも同様で、「元暦校本」を最良のテキストとして
古田先生は研究に使用されています。
 
たとえば『三国志』倭人伝の原文が、
「邪馬台国」と「邪馬壹国」のどちらであったのかを論じる場合、
国会図書館の蔵書中の表記を全て数え、多数決で決めるという方法が
非学問的であることはご理解いただけるでしょう。
それと同様に、現存する九州年号史料をたくさん集め、
その多数決で九州年号の原型を決めるという方法も非学問的なのです。
20年前の古田先生の教えを、
今回『新撰姓氏録』を再読しながら懐かしく思い起こしました。

「必要にして十分な論証を抜きにして、安易な原文改訂にはしってはならない」
という古田先生の教えとともに、
この史料批判に対する姿勢についても忘れないようにしたいと思います。

« 協会長杯・県大会の抽選会 2015 | トップページ | 昨日の部活動 4/19 »

古田史学」カテゴリの記事

コメント

『邪馬一国への道標』の再読を撃破し、先生の業績のコンパクトな集大成というべき『失われた日本』に入りました。

その中で
「あの『裸国・黒歯国、南米説』は面白いけれど、倭人伝の分析は、どうもね」などという、極めて非論理的感想が平気で語られる。残念ながら、日本の知的レベルは、それを許さぬほど、高いとはいえないように私には思われる(ミネルヴァ書房版 44ページ)
という一節が眼を引きました。

多数決は、たとえば集団でハイキングへ行く、雨模様なので引き返すべきかというようなときは有効な手段でしょうが(もちろん民主政治はそういう集団の意向を「みんなが」意見を出し合って自分たちで決めることが眼目なのですが)、知的で厳密性を要する学問とは時に相反するものであるということは、常識(コモンセンス)として人々がわきまえていかなければいけないことのように思います。

あじすきさんへ
コメントありがとうございます。

本当にそうですね。
政治にしろ,学問にしろ,「多数決で多い方が正しい」
というような風潮がわが国になければ幸いです。
せめて学問の世界だけは,
実験・論証が勝負といきたいものです。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 協会長杯・県大会の抽選会 2015 | トップページ | 昨日の部活動 4/19 »

2017年12月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

最近のトラックバック

無料ブログはココログ