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2014年3月18日 (火)

「東山道武蔵路」の分かりやすい説明

所沢図書館のホームページに
「東山道武蔵路」の分かりやすい説明が出ていた。
紹介したいと思う。

この道を,誰が何のために作ったのか,
どうしてその存在や,国府・駅家の存在までもが不明だったのか,
それを探求することが歴史学の課題だと思う。

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所沢の足跡 ~歴史編~

所沢を縦断する古(いにしえ)の道

所沢には古くから市域を大きな道が通り、中央と地方を結ぶ交通の要所として発展していました。
市域に残る道と歴史の移り変わりを紹介します。

古代の道久米・南住吉地区に奈良・平安時代の遺跡、 東(あずま)の上(うえ)遺跡があります。
周辺の集落跡に比べて、 かなり大規模で、昭和50(1975)年以来多くの調査が行われてきました。

平成元(1989)年の調査で南陵中学校の校庭から、南北に伸びる幅12mの直線道路が発掘されました。
この道路は、 周りの竪穴住居跡などから7世紀後半から9世紀まで存続していたと考えられています。

道路が作られた当時、武蔵の国府が置かれていた東京都府中市や、
国分寺が創建された国分寺市からも同様の道路が発掘されており、
東の上遺跡の道路跡は、そのほぼ延長線上にあります。

また、道路跡の延長上と思われる北方にも、大集落跡が点在しており、
古代の幹線道路の1つ東山道(とうさんどう)武蔵(むさし)道(みち) (入間(いりま)路(じ))と推定されています。

瓦や日常容器としての須恵器を生産していた窯跡(ようせき)郡(ぐん)なども分布しており、
製品の運搬、流通等にも用いられ、 相当の往来があったと思われます。

東の上遺跡からの出土品を見ると、墨書土器、漆紙文書や官職を表す帯金具、また鉄製馬具、焼印など
馬に関するものなど、 一般集落では出土しない遺物が見られます。

このことからも、入間郡衙説(いるまぐんがせつ)
(役所が置かれ入間郡の政治・経済の中心地であったとする説)、
武蔵路駅家(うまや)跡説 (早馬や公文書の逓送(ていそう)、
公用旅行者に対する馬の乗継や、宿泊などの施設があったとする説)などがありますが、
いずれにしても交通の要所であったことは間違いありません。

東の上遺跡は、9世紀代には衰退し、10世紀前半に終焉を迎えました。
これは、ちょうど全国の地方官衙(かんが)(官衙=役所)の消長とほぼ同じ傾向を示し、
律令制の衰退、崩壊を反映した事象とされています。

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拙説「古代日本ハイウェーは,九州王朝が作った軍用道路か?」を
ご検討いただければ幸いです。

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