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2013年12月 2日 (月)

太宰府と藤原京(新益京)

宮・・・天皇の住まい
京・・・天皇の住まいを最北に設けた都

以上のような定義でいいとすると,
7世紀前半に建設された太宰府は京(筑紫京?)だったといえると思う。
「紫宸殿」「内裏」「朱雀門」の字地名を残し,
条坊制の遺構が確認されているからである。

条坊制とは,中国・朝鮮半島・日本の王城都市に見られるの形で,
都市南北中央に朱雀大路を配置し,
南北の大路(坊)と東西の大路(条)を
碁盤の目のように組み合わせた左右対称のものをいう。

すなわち,わが国を代表する首都の資格十分だった。
実際続日本紀には,「わが国随一の都市である」という表現もされている。
また,内倉武久著『太宰府は日本の首都だった』
(ミネルヴァ書房)という本もすでに出ている。

それに対して,藤原京(新益京)はどうか。
続日本紀に頻発する「大和政権としては初めて作った」
と冠された京で,それまでは宮にすぎず,
九州王朝が663年の白村江の戦いで大敗北して後,
近畿政権が作った「初めての京」という位置づけだ。
それも,必ずしも藤原京の運営は
うまくいっていなかったといえるかもしれない。
710年には平城京に遷都するわけだから。

しかし,藤原京からはたくさんの木簡が出土し,
近畿政権が初めて作った年号の「大宝元年」や
郡評論争に決着をつけた「評」など
価値あるものが含まれている。

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コメント

徳川家康がスペイン国王からもらった「家康公の時計」のことを知っていますか。当時の時計として完品で残るほぼ唯一、これは使わなかったからということですが、経歴がはっきり確認され、大英博物館が太鼓判を押す、世界的宝というのですが、日本は国宝にすることを拒否するようです。それは家康の明治維新をしのぐ開国外交政策、カントも評価するものですが、ロドリゲスと会っていて、当時の歴史認識、日本書紀の歴史をすべて知っていることからでしょう。日本大文典はこの時代に印刷されていました。ロドリゲスの年表 ウィキからですが以下
    1597(慶長 2)年  26聖人、長崎西坂の丘にて殉教。
              ジョアン・ロドリゲス、殉教に立ち会う。
   1598(慶長 3)年  秀吉死去
   1599(慶長 4)年  徳川家康と面会する。
   1600(慶長 5)年  関ヶ原の戦
   1601(慶長 6)年  京都で家康と会い、通商代理人に指名される。
   1602(慶長 7)年  ヴァリニャーノ召集の協議会に会計係として出席、財政難              を報告している。
   1604(慶長 9)年  『日本大文典』を長崎にて刊行開始する。
   1607(慶長12)年  駿府の家康、江戸の秀忠に謁見するパジオにつきそう。
              また、セルケイラの謁見にも同席する。
   1608(慶長13)年  『日本大文典』の刊行完了する。
   1610(慶長15)年  マカオへ追放される。

いしやまさんへ
コメントありがとうございます。

私の知らない「歴史」が,この時期にあるようです。
ぜひ勉強したいものです。

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