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2013年12月 5日 (木)

日本書紀(日本紀)の講読会

日本書紀(日本紀)の講読会が,
奈良~平安時代にかけて何回も行われたという話は,
どこかで聞いたことがあった。

先ほどインターネット検索の末,
「世界大百科事典」の解説がヒットした。
転載してみよう。

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世界大百科事典 第2版の解説.
にほんぎしき【日本紀私記】

奈良~平安前期に宮廷で行われた《日本書紀》講読の際の記録。
《日本書紀私記》ともいう。
日本紀講筵は,《書紀》完成後の721年(養老5)に行われて以来,
7度にわたって行われたことが知られており,
そのたびに博士が私記を作ったというが,
今日ではその残巻が4種と,《釈日本紀》などに注記された逸文が残るのみであり,
その内容はおおむね本文の訓読である。《新訂増補国史大系》所収。【青木 和夫】

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7回にわたって講読会が行われたとすると,
何年頃に行われたのだろうと知りたくなった。
それは「ウィキペディア」に出ていた。
以下に転載してみよう。

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養老5年(721年)
           この間,91年
弘仁3年(812年)
            この間,31年
承和10年(843年)
           この間,35年
元慶2年(878年)
           この間,26年
延喜4年(904年)
           この間,32年
承平6年(936年)
           この間,29年
康保2年(965年)

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最初の90年は別として,
(もしかしたら,現在知られていない
750年頃と780年頃があった可能性もある)
あとの6回の間隔は約30年。
伊勢神宮の「遷宮」は20年だというが,
各世代に1回講読会が行われたのではないか,
という仮説が立てられるのではないか。
こんなことは,歴史を専門にしている人にとっては,
常識といっていいのかも知れないが・・・。

(1)720年,日本書紀(続日本紀には「日本紀」)完成
(2)平安時代に入り,講読会の必要性を感じて再開?
  (現在知られていない750年頃と780年頃あった可能性も)
(3)以降,約30年ごとに行われる
(4)10世紀後半になり,行う必要が感じられなくなる,あるいは行えなくなる
(5)鎌倉時代に,古事記・真福寺本の「発見」
 続日本紀にも「712年,古事記が完成」の記録がなく,
 内容も日本書紀(日本紀)と矛盾するので,
 太安万侶の墓誌発見まで偽書の扱いも受ける

私たちは,2つの歴史書というか,歴史物語を持っている。
その両者は似てはいるか,かなり違うところもある。
その矛盾点を検討し,『盗まれた神話』を著したのは,
歴史研究者の古田武彦氏であった。
現在ミネルヴァ書房から復刊されている同書を,
ぜひ読まれることをお勧めする。

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

以下のものから私は、日本書紀は日本紀から813年ころ成立したものと思いました。
それ以前は他の方の資料から819頃と思っていましたが。
平安初期の桓武あたりの、天皇制確立後ではないでしょうか。
倉西裕子著
『「記紀」はいかにして成立したか』

いしやまさんへ
コメントありがとうございます。

720年,日本紀 → 813年,日本書紀ですか。
それは考えていませんでした。
「日本書紀」の講読会としては,
30年ごとというわけですね。

九州王朝と大和王朝の関係について、「禅譲」説と「放伐」説があるそうですが、
私はもし「禅譲」によって九州王朝→大和王朝と王権に移譲があったのなら、
きっと大和王朝側によって九州王朝の史書が編纂されたはずだ、と考えています。

私自身は当時の唐朝の方針から、倭国→日本国への権力移譲は「放伐」以外に
ありえないと考えているのですが(天子を自称した勢力はすべて抹殺した。独自元号も)、
日本側が初唐の方針に気づかずにいったんは禅譲した可能性も考えるなら、やはり
大和王朝によって九州王朝の歴史が編纂された可能性も考えるべきだと思います。
日本紀と日本書紀の書名の違いも怪しいと言えば怪しいですし、日本旧記という書名も
禅譲期に編纂され、放伐期になって廃棄された史書と考えると納得がいく書名でもあります。
(この場合は新しく編纂された日本紀・日本書紀に対して、「旧記」と言っているのでしょう)
また、蘇我氏が「天皇記」「国記」などを編纂したのは、
「これは前王朝の歴史を編纂したものではなかったのか?」
などと考えています。

私が言いたいのは、大和王朝が史料を編纂したといっても、「禅譲」で編纂されたものと
「放伐」で編纂されたものでは内容が異なるはずだ、ということです。
「禅譲」だったのが「放伐」にかわったとするなら、「禅譲期」に編纂された史料は「放伐」
という方針に変わった時、どういう運命をたどったのだろうか。

私は、「日本紀」「日本書紀」「日本旧記」という書名を見るたびに、そのことに深い興味を
おぼえるのです。

ツォータンさんへ
コメントありがとうございます。

> 私が言いたいのは、大和王朝が史料を編纂したといっても、
>「禅譲」で編纂されたものと
>「放伐」で編纂されたものでは内容が異なるはずだ、ということです。

なるほど,そういうことですか。
私は日本紀=日本書紀と考えていましたが,
どの編纂段階のものかによって,
内容が異なるはずであるという視点はありませんでした。
う~ん,歴史の謎解きは難しいなあ。

729年さらに、769年のポイントまでは倭国系の王統の影響がまだ残るとすれば、日本紀 倭国からの流れで良いかと。しかし、770年以後は山辺王の国は、それから外れていてもよいので、679年までは二王朝並立を強調したかったと思う。あるいは、別王朝系なので日本紀とできなくて、書紀と書を入れざるを得なかったのかとも。泉涌寺では770年いごの位牌のみ祀るですから合います。

いしやまさんへ
コメントありがとうございます。

天武天皇系列の天皇を祀らない泉涌寺のことは興味深いですね。
その前に「皇弟」という日本書紀の表現が,
本当の兄弟ではありませんと告白しているようにも思えます。
「山辺王の国」というのは何ですか?

間違いました。山部王朝でした。
九州年号は 白鳳年号については、ここにありました。
秀吉、徳川家康の通詞をも務めたというロドリゴの、1608年日本大文典 原典には、700年前後の変動について、驚天動地の年号表となっていました。倭国年号は703年まで続いています。したがいまして、大宝律令は倭国が実施したものです。その後にクーデターが 乙巳の変 変とは乱と違う あり704慶雲以後がヤマト年号となる。柿本人麻呂の失脚もこれで理解できました。それに続いて改竄後の年号表 日本書紀の年号と番号 天皇名も出ていました。何事も無かったかのような年号表に成っています。長屋の変もこれから理解できるでしょうか。この原点をご覧になるとよいでしょう。

いしやまいしやまいしやまさんへ
コメントありがとうございます。

ちょっと,混線してきました。

> 間違いました。山部王朝でした。

これも初めて聞く言葉です。
どこに出てくる言葉ですか?

>九州年号は 白鳳年号については、ここにありました。
>秀吉、徳川家康の通詞をも務めたというロドリゴの、
>1608年日本大文典 原典には、700年前後の変動について、
>驚天動地の年号表となっていました。

私は初めて接する史料です。
どこで手に入りますか?

>倭国年号は703年まで続いています。
>したがいまして、大宝律令は倭国が実施したものです。
>その後にクーデターが 乙巳の変 変とは乱と違う あり704慶雲以後がヤマト年号となる。

倭国年号と大和年号はダブりますか?
それともダブりませんか?

>柿本人麻呂の失脚もこれで理解できました。
>それに続いて改竄後の年号表 日本書紀の年号と番号 天皇名も出ていました。
>何事も無かったかのような年号表に成っています。
>長屋の変もこれから理解できるでしょうか。
>この原点をご覧になるとよいでしょう。

これは原典の間違いでしょうか?
ロドリゴの、1608年日本大文典は
どこで入手したらいいのでしょうか?
どうもそれを見ないと内容がわかりません。

大変申し訳ありませんでした。山部王朝とは、ヤマトの一系列?、後の桓武ですね。1608「日本大文典」とは、ロドリゲスというポルトガル人が、出版したもので、日本語にメッチャ詳しい日本百科事典のようなものです。普通に本ですから、図書館とか・・・・と思いますです。
倭国年号とヤマト年号は並列しています。一部重なるところがあるかもしれません。
原典、ですが、原点でもあるのかと。戦国時代を通して、古代の歴史観がここまで確かに伝わり、しかも、ポルトガル人が30年間日本に居て、秀吉、家康、など当時の支配階層に対峙し、キリスト教布教を通じ、ポルトガル、スペインが日本植民地化を狙ってオランダとも争っていた時です ヨーロッパの世界の覇権国からの人です。そういう人が日本歴史を理解して書いたものです。難破したロドリゴを新造したばかりの船まで与え帰国を助けた恩義から、スペイン国王から家康公に時計が贈られています。家康はさまざまなことに大変便宜を図ります、銀山開発では、技術者派遣を依頼して、利益は向こうの要求をそのまま入れるというような条件まで飲みましたが、通商よりキリスト教布教優先のスペイン 世国覇権国 植民地になれという要求に対しては、家康公は何が起ころうともそれは譲らない姿勢を示した。「家康公の時計」は世界の宝と認められているのですが、日本の国宝にはしたくないようです。・・・・・これが現状です。

いしやまさんへ
コメントありがとうございます。

「家康公の時計」興味あります。
アマゾンで本を買うことにしました。

ありがとうございました。スペイン、ポルトガルの日本植民地化計画があったことが未だに不明確にされています。家康公の時計を国宝にすることは、その歴史をオープンにすることです。江戸時代は世界に誇れる文化国家の評価がありますから、江戸城は世界遺産にふさわしいものだと思います。現状はどうでしょうか。未だに皇居として、江戸幕府を抑え込んだままの状態です。家康は権力者でした、明治の権力者は薩長でしょう、双方それぞれ、およそ300年、100年の間に何をもたらしたでしょうか、これでは前には進めないのではないでしょうか。

いしやまさんへ
コメントありがとうございます。

そういう発想はしませんでした。
江戸城は現在皇居なので,
世界遺産に指定する話が起きにくいのでしょうね。

聞くところがないので、ここで聞ければと思い、お聞きしたいのですが。
平安京遷都はなぜなのでしょうか。奈良の仏教勢力 倭国 と藤原氏 百済 秦氏 の争いと見てよいのでしょうか。勢力争いの結果 藤原勢力が勝ち、政権交代があれば従来は都を移してきました。
ここで、日本書紀の天智を消したら、歴史は何か変わるでしょうか。山部王朝の血統的正当性は無くなりますが、勢力争いの力による政権の正当性は何一つ変わりません。ということでどうなのでしょうか。

いしやまさんへ
コメントありがとうございます。

普通「平安京遷都」の理由は,
仏教勢力の影響から逃れるためと言われますが,
その背景がいろいろあるということでしょうか。

失礼します。旧勢力、仏教寺院、旧倭国勢力を打ち破り、山部勢力、秦氏、百済、その他の東国勢力により覇権を握り、都を山城に求めた。仮説です、歴史を知らないものですから、中学、高校レベルなので。大学レベルであればわかるのではないでしょうか。筑紫、吉備、出雲、旦波、高志の名もどのように入るのでしょうか。

いしやまさんへ
コメントありがとうございます。

しかし,平安京遷都が重要だということ以外,
私にはほとんど内容が理解できないのですが・・・。

遷都は王朝が変わった時に行われています。山部王朝は前王朝とは違う王朝でしょうか。それ以外に解釈がないのでごまかしているのかな。そう説明できないでしょう・・・だからいろいろ言っているのかと

いしやまさんへ
コメントありがとうございます。

> 遷都は王朝が変わった時に行われています。

この考えで行くと,これまで何回遷都が行われたことになるのでしょうか。
つまり,いくつの王朝があったことになるのかと・・・。

その通りですね、教えられました。難波、明日香、藤原、平城、このあたりでも動いていますね。勢力争いが激しいのでしょう。 そして長岡、平安で安定、以後 明治、ここで王統が変わっているのでしょうか。
そういう説も無いとは言えないですか。

いしやまさんへ
コメントありがとうございます。

中学の歴史では,平城京が奈良時代を,
平安京が平安時代を代表する都という感じですが,
その実態はかなり違っていたということでしょうか。

古田史学としては,太宰府(筑紫京?)を
その前に置きたいところですか・・・。

当方の興味は、律令開始がどのように行われたのか、700年前後に集中しているので、それより前の大宰府や難波京などについて、何もわからないというか、そこまでの関連が出てこないので、考えが及びません、何とも云いようがないです、済みません。

いしやまさんへ
コメントありがとうございます。

磐井の墓といわれる岩戸山古墳に別区には,
裁判の場面が表現されていたとのことです。
(筑後国風土記だったかな)
これは「律」の一種と考えられるので,
九州王朝ではすでに6世紀には取り入れられていると
考えていいのではないでしょうか。

812年以後の日本書紀の講演会の異常な頻度ですが、このように理解できるものと思います。
山部の下剋上により倭国王統は殲滅したので、720年日本紀は、日本書紀に改竄して、正当性を強調する必要性が生じ、それまでの倭国王統の日本紀では周知であった歴史を、日本書紀の改竄後のそれまでと全く異なる歴史を徹底的に教育する必要性が生じたため、これほど頻繁に、ほぼ一世代ごとに一回の歴史教育が必要となったものと思います。改竄主要点は、、鎌足、中大兄、不比等、鵜野の創作です。その理由は、藤原宮が隠され、存在すら疑問とされていましたので、藤原氏の存在は問題とならなかったが、藤原宮の実在と、平安京を上回るような規模で藤原京が存在したことが分かった時点で、避諱により藤原氏はその存在基盤を失いました。721年に藤原郡創設記事と726年藤原郡の藤野郡変更記事があります。異常記事ですから、藤原氏を嘘といっているもののようです、どうでしょうか。

いしやまさんへ
コメントありがとうございます。

720年に完成したのは「日本書紀」ではなく,「日本紀」。
その「日本紀」を100年近く後に改竄したのが
「日本書紀」というわけですね。
だから,これほど講読会が必要とされたと。

そうだとすると,まず,
「歴史は勝者によって,自分の都合のいいように書かれる。
だから,常に改竄されうる危険をはらんでいる」
ということを教えなければなりませんね。

高市には柿本人麻呂の天皇への挽歌がありました。長屋は木簡から親王と分かり、律令制度下では天皇の子供と規定されているようなので、その通りでしょう。木簡からの推定は天皇のようです。鎌足、不比等にはそれに反して律令に反する官位などがあるようなので、大化の郡と同じように、時代小説の考証としては落第のようです。775年の山部の政権掌握の歴史も良く分からないのですが、白鳳から奈良初めのこの歴史も全く分からないようです。それにつながる古代の歴史は、タリシホコまでどうつながるのでしょうか。
藤原氏物語-栄華の謎を解く- 高橋崇 は読まれていますか、だれもこの本には触れたがらないようなのですが、現代の禁書 ・・・・のようす。

いしやまさんへ
コメントありがとうございます。

残念ながら読んだことはありません。
私の古代史の読書は,
古田武彦氏とその周辺に限られますので,
あまりご期待なさいませんように。

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