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2013年7月31日 (水)

「続日本紀」の中の九州王朝=10個の傍証(再出)

傍証とは,ある事実を間接的に証明する証拠。間接の証拠である。
今宇治谷孟訳『続日本紀』(講談社学術文庫)を読んでいるので,
そこに載っている九州王朝の傍証を10個挙げてみる。

(1) 「はじめて」「初めて」「始めて」記事のオンパレード
 大和政権としては「はじめて」「初めて」「始めて」○○したということ。
 本当に多いので,ぜひ確認してみてほしい。

(2) 698年3月9日・10日,諸国の国司・郡司の任命記事
 今だったら都道府県知事・市町村長の任命にあたる。
 これが大和政権としての初めての任命である。
 ということは,それ以前は九州王朝の任命ということになる。

(3) 698年11月23日,大嘗祭を行う(文武天皇の即位の儀式。
 「日本書紀」の最後の天皇である持統天皇に続いて大和政権では2人目。
 その前の天武天皇は悠紀・主基の2国にほうびを与えたのみなのだ。
 大嘗祭を行ったのは九州王朝の天子だった!?)

(4) 700年6月3日,薩摩の比売らの反乱記事(九州王朝の最後の抵抗?)
 内容から,評督や助督という役職が当時あったことがわかる。
 この役職は九州王朝時代の役職で,大和政権のものにはない。 

(5) 707年7月17日,「山沢亡命」記事(1)
 軍器(正規軍の印=錦の御旗?)を持って逃げていた人たちがいた!

(6) 708年1月11日,「山沢亡命」記事(2)
 禁書(九州王朝系の史書)を持って逃げていた人たちがいた!

(7) 712年,古事記の記事(があるはずなのに,ない!)
 720年の日本書紀に統合され,二度と陽の目を見るはずのない存在だった古事記が,
 鎌倉時代に真福寺で発見されてしまったというわけ。記紀の両立はありえないのだ。

(8) 716年5月16日,豊後(今の大分県)と伊予(今の愛媛県)の間は
 これまで行き来することが出来なかった=境界があった=別の国だったことがわかる。

(9) 717年11月17日, 「山沢亡命」記事(3)
 武器を持って逃げていた人たちがいた!(軍器や禁書はもう大和政権が手に入れたか)

そして最後は,極めつけの天皇の詔報の中に九州年号の登場だ。

(10) 724年10月1日,聖武天皇の詔報に九州年号が登場
 「白鳳以来・朱雀以前(要するに前王朝時代)のことは,はるか昔のことでわからん」と。
 といっても,わずか60年前のこと(今だったら「戦争中」のことという感じ)であるが・・・。
 治部省からの質問に対しての回答の冒頭で,ポロっともれてしまった九州年号だった。
 (おしまいに,参考として九州年号を全部挙げてある。寺社の縁起など各地に残る)

私がこれまで学んだ「続日本紀」の記事を10個あげてみた。
見る人が見れば,まだ他にもあるのだと思う。
もしご存知だったら,教えていただければ幸いである。 

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

南朝の事例参考になりました。
730年 甲斐国司任命記事と馬牧がヤマトの手に入ったことを大喜びしています。
     諏訪国もこの時支配下に入ったようです。これらは長屋一家殲滅と関係するのでしょうか。

いしやまさんへ
コメントありがとうございます。

少しでもお役に立てたなら幸いです。
いしやまさんは,かなり専門的な研究をされているようですね。

いえいえ、私は本当にズブの素人です。
日本書紀はあまりに小説的なので、政治的な記事はできるだけ見ないようにしています、
それで、関係なさそうな事務的な記事ばかり見ています。
それが説明出来るのかどうかというような、
ですから700年以前はてんから見ていませんので というわけです。

いしやまさんへ
コメントありがとうございます。

記紀を「歴史書」と考えると,
彼らのペースにはまってしまう。
そうならないための方法としては,
「記述の利益がない部分の方がかえって信用できる」
ということは言えるかもしれませんね。

700,前後の歴史が、これまでの解説から見えてくるなら見ますが、
いくら読んでも全くわかりません。
それは、ここでも挙げられている事実からです。
それらは説明できないと思います。
つまり、全部間違いということですね。
そうでなければいいと祈っていますが、
この枠組みがどうしても外せないようですから すみませんね。

いしやまさんへ
コメントありがとうございます。

私は古田武彦氏の歴史研究に学んでいる者ですが,
いしやまさんは古田武彦氏の著作はお読みになっていますか?
私はかなりいい論証ができていると考えているのですが・・・。

日本紀、日本書紀成立の歴史的意義はこんなものでしょうか。
隋、唐の中国と対立した倭国は662年敗戦、力を落とし後倭国として続いた。それは、この時代の各地の年号 九州年号も其の一つ を白鳳年号と総称すれば、それが続いていることからわかる。
白鳳国-白鳳時代として区分する。 662--697年  この時代、各地の国は白鳳寺院 法起寺様式 を後に残している。697年 文武が覇権を持つにいたった ヤマトの天皇はここから しかし、倭国の名分は残った    徳川が覇権を握った後も豊臣-大阪城は名目的に残ったのと同じように?
701年 建元 大宝 ヤマト成立 この後の領域拡大状況は各国の分国進行から分かる
720年 日本紀成立 ここまで倭国の王統が残っていた、それで、みんな一緒で二王朝並立の認識はないので紀。それとは違い、明治維新では、徳川は権力から排除され、薩長覇権になった、江戸時代は暗黒時代とされた。豊臣の刀狩、これは教えるが、徳川の鉄砲狩は教えない。729年 倭国の王統の長屋が殲滅排除される。ここで倭国系王家は滅亡したのだろう?
    大阪落城のようなものでは   つづく

いしやまさんへ
コメントありがとうございます。

歴史は似たようなことが繰り返しているということでしょうか。
いしやまさんはどのようにその認識にいたったのでしようか。
古田武彦氏の著作もお読みになってまいすか。
あるいは他の方の著作から学ばれたのでしょうか。

一応興味のままにいろいろ読み進みましたが、奈良時代でさえも、何も納得できる歴史が分かってこないものですから、勝手に想像しこんなものかとしたものです。こちら画面を汚しましてすみませんでした。ご容赦いただければ幸いです。

いしやまさんへ
コメントありがとうございます。

古田氏のことについてお答えいただけないのは残念ですが,
私は彼の様々な著書によって,
初めて納得のできる歴史研究に出会えたという思いがしました。

ご返答なくて申し訳ありません。倭国については古田氏はどなたかのいうように、もちろんコペルニクスの栄誉があるものと思っています。ということで、よろしくつづき

奈良時代ヤマトは 大倭、大養徳、大倭、大和と覇権国--権力者のさまざまな交代があった?
この間、白鳳寺院を廃棄して、各国に国分寺を作らせる。
770年 新王朝が開始する 山部王朝  日本(ヤマト)書紀はこの後に成立したものと考える。その理由は、はっきり「書」としており、ヤマト覇権を強調するため、二王朝並立を目に見えるように強調したものと思う。それを認識していることは次から分かる 「白鳳、朱雀年号の時代のことは玄遠で分とからない」それは他の王朝のことで知らないと。
つまり729年から70年ほど経つが、皆歴史を知っているので、始めから単一王朝という主張までは出来なかった。現在の天皇は長くてもここからとなる。
ここまで来て倭国は暗黒時代としてすべて排除した。
これから見て、日本書紀に記述されていない事柄は、全て白鳳国?時代での事績とすることが出来る。天皇呼称の成立、日本、無紋銀銭、評里制、富本銭、高松塚、キトラ、藤ノ木古墳、柿本人麻呂などなど。702年より前の歴史書は全てヤマト 山部王政権により焚書されてしまった
703年以前の天皇は名分 名目 後付。天皇諡号も何時付けたのか明確にしない、これは何故なのか、770年以後と遅かったので言えなかった、不都合なことは云わない。天皇制確立から考えると必要としたのは山部王朝である。

いしやまさんへ
コメントありがとうございます。

>770年 新王朝が開始する 山部王朝

上記の通りすると,その画期線となるものは何でしょうか?
たとえば700と701なら「評」と「郡」となりますが・・・。

またまた画面を汚します。これまでの分からないことは次ですね。
藤原京で大宝律令を出しながら、なぜすぐに平安京に移ったのか、そしてこの画期の藤原京がどこにあったのかも分からなくし、しかも律令制への移行という大転換をしながら、その業績もまたほとんど印象に残らないように消し去ったのか。この理由は、大宝律令までが倭国の事業であり、直後にクーデターで政権をとった勢力が、平城京遷都を行った。この原因はこうでしょうか、従来の柵封体制を是とする倭国勢力に対して、反対派の唐に対する独立を維持しようとする日本国勢力派が転覆したものである。従って、大宝律令までが倭国の事業で、慶雲以後が日本国となる。それでこの京の問題は解決する。長屋はこのとき独立派に組したものであり、その後に倭国派排除により滅ぼされたものと思う。
この根拠は、平安から戦国と、それまで伝わった本来の歴史認識、1608年にロドリゲスが表した、日本大文典記載の倭国年号によるものです。
その後、山部王朝により歴史は日本書紀として書き換えられ今日に伝わったものと思います。大化の改新への大幅な書き換えです。歴史をほとんど勉強していないものですので、間違いはたくさんあると思いますが、その時は訂正します。

いしやまさんへ
コメントありがとうございます。

> この根拠は、平安から戦国と、それまで伝わった本来の歴史認識、
> 1608年にロドリゲスが表した、日本大文典記載の倭国年号によるものです。

ロドリゲスのこと,興味が湧いてきました。
先ほど検索して調べたら,岩波文庫に「日本小文典」が2冊入っていました。
「日本大文典」だと8000円近くするらしいので,ちょっと躊躇しています。

いしやまさんは「日本大文典」自体をお持ちなのでしょうか?
また,倭国年号の部分のコピーなどお送り願えるのでしょうか?

もちろんです、原点本と漢語日本語翻訳版と両方提供可能です。
当方残念ながら、研究者でもなんでもない、そのうえ、ブログも持てないような古代史に関し、低い知識レベルのものですから、文献公開もままなりませんです。よろしくお願いします。700-800年あたりの知識をこのところさまざまなウェブページから教えてもらい始めているところでして、本当に申し訳ない限りです。

いしやまさんへ
コメントありがとうございます。

両方提供していただけたら幸いです。
ぜひこのコメント欄に住所とかかる費用をお書き下さい。
(もちろんそれは公開いたしません)
その住所にコピー代・送料等を
送らせていただきたいと思います。

今、この本を目の前にして、ジョアン・ロドリゲス氏と土井忠生先生に敬意を表し、ぜひこの広辞苑ほどの書籍の実物の迫力に圧倒されてみてください。
戦国末期の日本文化の百科事典のようなものですから、それだけでも国宝級と思います。
よくもここまで400年前に、ロドリゲス氏は調査されたものだと、感動いたします。この天才ぶりは、そんな程度では表しようがないのですが、それぐらいしか表現力がないものですから 残念。
現物の本物の迫力に触れること、感動に震えることが、何よりも大切ではないかと思います。
それなしでは、年号の記録も迫力も真価も薄れてしまいそうです。

そのうえで原典コピーがどうしても必要でしたら、改めてお送りいたしたいと思います、どうでしょうか。400年と影響力から、コピーでは失礼ではないかと思ってしまうほどですので ということです。

いしやまさんへ
コメントありがとうございます。

検索してみたところ,埼玉県立久喜図書館には,
文化書房博文社版(1969年)と三省堂版(1980年)が
蔵書されていることがわかりました。
冬休みに行ってみたいと思います。

ありがとうございます。きっとびっくりされるものと期待しています。極東で得たロドリゲスの感動の一端を分かちあえるものと思います。ザビエルもあのように感動していた戦国時代ですから。

いしやまさんへ
コメントありがとうございます。

久喜まで半日かけて行ってきます。
「歴史は足にて知るべし」とも言うそうなので。

最近「いしやま」が「いいやま」と送られてくるので
訂正して出しているのですが,ミスタッチでしょうか?

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