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2012年5月27日 (日)

『続・法隆寺は移築された』(2)

上記の本(米田良三著,AB&JC PRESS)を昨日読み終わった。
驚くことがたくさんあった。
そのいくつかを書いておきたい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(1) 法隆寺だけでなく多くの寺社が移築されている

法隆寺・五重塔の心柱が年輪年代法で594年の判定が出た時,
米田氏はインタビューの中で「移築説に到達するまで」をこう語った。

「私が法隆寺は観世音寺が移築されたものだと考えるようになったのは、
建築史の研究からです。
奈良時代の前が飛鳥時代ですが、
飛鳥時代の近畿地方の(五重)塔の心柱は掘立柱でした。
遺跡の発掘からわかることです。
ところが、現在飛鳥時代の建築として残っているものは、
皆、基壇に据えた礎石の上に立っています。
掘立柱と礎石とは明らかに技術がちがいます。
それで、現存する飛鳥時代の建築といわれるものは、
どこからか移築されたのではないかと考えたのです。
どこかといえば、当時の状況からして自ずと九州から、ということになって、
いろいろ調べてみると、裏付ける資料が見つかったのです。
法隆寺の西院伽藍だけでなく、夢殿を中心とする東院伽藍、法輪寺、法起寺などは
一連のものとして移築されたのではないかと思います。
吉野宮(吉野ヶ里からの移築)、伊勢神宮、薬師寺、長谷寺、東大寺、三十三間堂、
さらに時代はぐっと新しいのですが、桂離宮も移築されたと考えています。
移築という発想のもう一つの契機となったのが678年の白鳳大地震を知ったことです。
この時、飛鳥では回廊の壁が発見されて話題を呼んだ山田寺を始め、
掘立柱系の多くの建物が崩壊したのではないかと思われます。
ところが、九州の建物はまったく壊れていない、無傷だったのです。
そこで、大和政権は震災からの復興に
九州の建物を移築したのではないかと思いついたのです。」

(2) 「源氏物語」「住吉物語」「小倉百人一首」の舞台も筑紫である

地名間の距離,時間が大和近辺では成立しない。
ところが場所を移して筑紫だと,リーズナブルな移動となる。
これは,本来作られた物語や歌集が,
その後の「地名移動」と不整合になっているためではないか。
(大和政権は,筑紫にあった地名を数多く大和近辺に「移動」させている)

(3) 「法隆寺移築論争」シンポジウムの後で出た東京新聞の記事

多元の会主催のシンポジウムの後で,観世音寺の地下から礎石の「根石」が発見された。
それは「法隆寺移築」を裏付けるもの(現在の講堂より規模が小さく,
法隆寺のサイズとマッチするもの)だったそうだ。

観世音寺礎石下から古い基礎発見(創建時の講堂後発見)04/3/20

観世音寺の発掘調査を進めている九州歴史資料館が
04/3/17、8世紀の創建当時のものとされていた現存する講堂の礎石の下から、
さらに古い時期の建物の基礎部分を見つけたと発表 
早速20日10時半からの同歴史資料館の現地説明会に参加し説明を受けた。
調査は1月 に着手講堂の周辺約150㎡を発掘。講堂の基礎部分を掘ったところ、
礎石の据付穴と根石を見つけた。
穴や根石の配置から創建時の講堂 は東西30m、南北15.36mと
一回り小さくなってることも判明した。

再建された講堂の基壇部分から焼土炭層も見つかり、
観世音寺に関する文献「扶桑略記」「本朝世紀」が記録する1064年の堂塔回廊の焼失を裏付けた。
又講堂の基壇は金堂と比べて造りが雑な事などから
「金堂と塔を最初に造営し、次に講堂を造ったことも推察される」

米田氏は「東京新聞のみ」と思っているようだが,
検索したら産経新聞にも記事があった。

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