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2011年8月 2日 (火)

古代史遺跡巡りの旅(2)

8時半ホテル出発ということで,上記の旅の2日目が始まった。
(國友さんから『「邪馬台国」はなかった』の初版本をいただいた。
ありがたい。私は,角川文庫,朝日文庫,ミネルヴァ書房版は持っているが,
最初の朝日新聞版はまだ持っていなかったもので)

(1) 女山(ぞやま)神籠石

高良山大社の神籠石と同じように,首都(太宰府を中心に山口から
久留米の間を移動した)の逃げ山城として作られた。
例によって周到な國友さんの下見によって,
山の途中まで連れて行っていただき,
そこから山頂近くまでの神籠石を観察しながら山を上った。
高良山のものに比べて石が小ぶりのような気がした。
(あるいは長方形的にいくつ分も長さを稼いでいるものもあった)
山頂の展望台で平野部を眺望して車に戻った。

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(2) 岩戸山古墳

資料館は休館日だったが,國友さんに手配していただいて,
教育委員会の若手研究者の方に解説&案内をしていただいた。
館内と古墳の両方で合わせて1時間の予定だったが,
説明も興味深く,私もたくさん質問をしてしまって,合計2時間滞在した。
石人・石馬・金の耳飾り(23金だそうだ)などをじっくり観察でき,
今までで1番収穫があった。(古墳の規模としては,別区まで入れた
180mと考えているとのこと。まだ正式の発掘はされていないが,
平成9年に九州大のある教授が地中レーダーをかけて,
石室の規模などはほぼ予想通りだったそうだ。
「完全な技術が確立されるまで発掘は実施しない」と文化庁は言っているそうだが,
こんなに重要な古墳を発掘しないことの方が許されないことだと思った。
また「最近,磐井の乱はなかったという説も出ている」
(考古学的な証拠がまったく見出されないので)
という解説には,古田さんの本を読んでいるのでは?と思った)

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(3) 吉野ヶ里遺跡

時間が押してきたので,最初に食堂で昼食をとった。
そのあとバスで北の墳丘墓まで連れて行ってもらい,
そこから入り口のところまでブラブラあるいた。
竪穴式住居,物見やぐら,邸郭などの建物は,
位置と向きを変えずに復元しているそうで,
南向きと東向きが多いのは現代と変わらないと思った。
柵内の施設を守るための濠,柵,物見やぐらは厳重で,
今で言えば高度な軍事要塞という印象だった。
今では多くの建物に入れたり,上れたりする。
蒸し暑い日だったが,ミスト付きの扇風機に時々お世話になった。
なお,吉野ヶ里遺跡のメインキャラクターは「ひみかちゃん」である。
いよいよ吉野ヶ里遺跡も古田説の採用か?時代は変わった!
と思ったら,それは早合点で,東背振の「ひ」と三田川の「み」と
神崎の「か」と,地元の地名をそれぞれ採って「ひみか」なのだそうだ。
チャンチャン。まだ行ったことのない方はぜひ行ってみるといい。

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(4) 太宰府周辺

太宰府の都府楼跡を見学したあと駅まで送っていただき,
北村さんは空港へ,私と根本さんは太宰府天満宮へ,
(観世音寺や九州歴史資料館には今回行けなかった)
國友さんと古殿さんは八女に戻った。
太宰府天満宮は九州王朝の天子の住まいがあったかもしれない
と考えられる施設である。世間では菅原道真の方が有名だが。
根本さんは生徒人数分の「合格鉛筆」を買っていた。
夏休みに残暑見舞いを金印絵葉書で,
冬休みに合格鉛筆で高校受験を励ます作戦だ。
さすが,用意周到な根本さんだと思った。

そのあと店に入り,かき氷と梅ヶ枝もちで体を冷やしたり暖めたり・・・。
空港で夕食をして,午後7時発のJALで根本さんが,
午後7時50分発のANAで福岡空港を離れた。
羽田空港からはリムジンバスで所沢まで寝て帰り,
たの社メーリングリストに「まとめに代えて」という文を書いた。
皆さん,どうもありがとうございました!
来年は宮城県の松島大会。今年の遺跡巡りの対として
三内丸山遺跡を中心にした遺跡巡りを組みたいと,
根本さんと相談した。もちろん私の解説付きでネ!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

最後に,「たの社メーリングリスト」に書き込んだ文を転載する。

「まとめに代えて」

私が仮説実験授業を知ってから30年になりますが,
古田武彦氏の「九州王朝説」を知ってからももう20年余になります。
板倉さん同様古田さんの研究意欲もすごくて,
著書や講演会で刺激を与え続けてくれています。

仮説・実験的に取り組むことの大切さを研究会の人はよく強調しますが,
それならば歴史の研究にも「九州王朝説」という仮説を立てて研究すれば,
多くの収穫があると私は思っています。
学校で私たちが授業に使う歴史教科書は,意識するにせよしないにせよ,
日本書紀の「昔から大和が「万世一系」的に支配してきた」
という考え方を踏襲して作られているので,
学べば学ぶほどその考えが身に付くことになってしまうのです。

実は,郡と評の境目,「九州年号」と「大和年号」の境目など
様々な事象の画期が7世紀末&8世紀初頭にあります。
これは日本を支配する政権が大きく変わったことを示すものです。
また,中国の正史もこれを支持しています。
例えば「隋書」には,倭国が阿蘇山のある地に都を置いていることを
書いてもいます。(ついでに言うと,普通は聖徳太子のこととされる
「日出ずる処の天子」はこの倭国王の「多利思北孤」のこと=
遣隋使を送ったのは倭国(九州)だということが分かるのです)
また,「旧唐書」には倭国(倭国)と日本国(大和)が7世紀わが国にあり,
663年の白村江の戦いをきっかけに前者は後者に併合されてしまった
ということが書いてあるのです。

しかし,文献だけでは心配です。そこで,遺跡・遺物はどうなのか?
考古学的には中心だった証拠があるのか?
それを見ていただこうというのが今回の遺跡巡りなのかなと思います。

本当はあと2,3泊して糸島半島の方にも行ければ,
弥生時代の遺跡・遺物をさらにお見せできたのですが,
それは「また次回」ということにします。

来年の夏の大会は,宮城県・松島で行われます。
これは根本さんと話したことですが,きっかけの論理で,もう1日延長して
新幹線で青森まで足を伸ばし,三内丸山遺跡ほかを見てくるというのはどうでしょうか
その他にも青森には,縄文文化の繁栄振りを証明する遺跡・遺物がいっぱいあります。
(亀ヶ岡遺跡や是川遺跡など)

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コメント

いい旅をしてきましたね。
携帯でみるのは面倒ですが、思いは伝わりました。

翔空さんへ
コメントありがとうございます。

充実した4日間となりました。
ノートパソコンとモバイルの携行は,
やはり便利で助かります。

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