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2010年11月 8日 (月)

古代史セミナー2010(2日目)

昨日は,古代史セミナーの2日目だった。
2日目も充実した会だった。

まず最初に来年も同時期の開催が荻上氏より提案され,
大きな拍手で賛同の意が表わされた。

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【古田氏の講演と質疑応答】

九州年号にもっと注目すべきある。
普通5,6年のところが,
白村江の戦いを含む白鳳は23年間も使われている。
また,聖武天皇も詔報の中で「白鳳」と「朱雀」の
2つの九州年号を使っている。

山沢亡命記事の「山沢」とは,信州ではないか。
「八面大王」は八女(やめ)のこと。
田村将軍に討たれたというが・・・。

熊本県に密集して住んでいる「尹さん」は,
「倭(ゐ)さん」ではないか。

弥生時代を中心として,考古学をもう一度
全面的に考え直すべきではないか。
太宰府の最初の建設の年代も,
白村江の後では不自然。

ひとことで「太宰府中心」といっても,
弥生時代以来の中心だった博多湾岸と,
高句麗の侵攻を恐れて「遷都」して
316年に高良玉垂宮が小郡に置かれた
筑後川以南とでは,かなり意味が違う。 

古事記には卑弥呼と壱与は登場しない。
その「不備」を神功皇后の創設で
解決しようとしたのが日本書記だった。
ところが二倍年歴を知らなかったために,
100年の年代のズレが出てしまった。

神功皇后の遺跡はあるが,
卑弥呼・と壱与の遺跡はない。
「今までの卑弥呼・壱与の遺跡は,
今後は神功皇后の遺跡とする」
という使いが通達して回ったのではないか。
すると逆に,神功皇后のお墓と言われているものに
卑弥呼のお墓の可能性がある。それはどこか?
それは香椎の宮ではないか。(「五色の石」があるなど,
ただならぬ王者の痕跡があるという。
その中に金印が埋められているかも)
香椎の宮のそばには「印やく神社」も多い。
この中には卑弥呼のもらった「親魏倭王」の金印に次ぐ
銀印や銅印が収められている可能性があるのではないか。
また,さらに須玖岡本遺跡も可能性あり。
唯一の中国の錦や鳳(おおとり)の鏡が出ているからだ。
ちなみに「漢委奴国王」の金印は,
細石神社の宝物であったのが,
強奪されてしまったとの伝承もあるという。

蘇我川という川が大和にある。
蘇我氏という氏族名は,
もともと地名から来ているのではないか。

吉野には「神武天皇を受け入れた」という伝承の家と,
逆に「神武天皇を拒否したために
いまだに近所の家に非難される」という伝承の家と
両方があるという。

九州王朝のタリシホコが天子を名乗った証拠。
(1) ご主人の南朝が滅びて後,天子を称した
(2) 継体(南朝の天子の体を継ぐの意)という天皇の名称
(3) 「日出ずる処の天子・・・」という自署名
(4) 九州年号を使い続けた,
(5) 中国に「礼を争った」という史料がある,
(6) 天子宮(あまごのみや?)と呼ばれるお宮がある。
しかし,背景には仏教的な思想があるのではないか。
(天子多元説)

今まで,本当の思想は,政治変動にともなって
出て来るものだと思っていた。
しかし,それは間違いだった。
政治権力は自らの正当性を保障するため
国民を洗脳してきた。
我々が今までの流れにとらわない
本当の思想を構築できるかどうか,
これからが本番なのである。
政治権力や宗教にゴマをするような
そんな歴史研究や歴史教育はやめよう。
その方が「人類の滅亡」により近い。
これはある意味では,人間の造った神たちの
挑戦状と言えるのではないだろうか。

藤村氏(旧石器捏造事件の人)との講演会が
提案されたことがあったが,
新聞報道ばかりで「報告書」が出ていない。
それを指摘したところ,古田さんが関わっている会には
出ないと言って来た。その後,捏造事件が発覚した。

縄文人も弥生人も独自の文化をもった渡来人である。
少し先か後かの違いだけ。
日本列島というフラスコの中で混ざったのが日本人のもと。
米の渡来が2ルートあったことや時期が,
「東日流外三郡誌」に書いてある。(絹の伝来も)

天皇記・国記のことが復元できる史料を探しましよう。
探せばきっとあるはず。
ぜひその組織を作ってほしい。

斉明天皇は,九州王朝の終末の頃の天子である。
それを大和の天皇の1人として取り込んだ。
皇極天皇は大和の豪族の娘で,
両者を同一人物として扱い,方や狂人,
方や晴れがましい役を日本書紀で負わせている。

室見川の銘板についてかつて研究し,
「弥生時代の国産の記念品」と分析した。
その後吉竹高木遺跡が出土した。
現在は公のところに収蔵されているので,
しかるべき手続きをとれば見せてもらえる。
ぜひ正式の分析をするように盛り上げてほしい。

古墳時代のスタートと言われる箸墓古墳だが,
九州王朝の分派の女性の墓であるようだ。
放射性炭素による測定で絶対年代も下がった。
・九州王朝系の武烈天皇まで・・・巨大な古墳を作った
・継体天皇以降・・・巨大な古墳は作らなかった
以のように明確になったのだ。

【謝辞】

2年連続の「県大会からのとんぼ返りの参加」となったが,
来年もぜひ参加させていただきたい。
私にとってこのセミナーは,晩秋の「至福の時」である。
次回は,11月5日(土)・6日(日)とのこと。

古田武彦氏には言うまでもありませんが,
参加者の皆さん,スタッフの皆さんにも
感謝いたします。「ありがとうございました!」
また,来年も元気でお会いしましょう。

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