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2010年10月30日 (土)

郡か評か~古代史の謎をめぐる郡評論争

歴史教科書のもとになっているといっていい日本書紀によると,
日本では〈国ー郡ー里〉という行政制度が
大化の改新からしかれていたことになっています。

ところが,その当時は〈国ー評ー里〉という別の行政制度がしかれ,
実際に〈国ー郡ー里〉が使われるようになったのはもっと後だとして,
古代史の謎をめぐって戦わされたのが「郡評論争」と呼ばれるものです。

この決着は,戦後の木簡の発掘によってつけられました。
木簡とは薄い木の板に書かれた荷札で,
地方から都へ調や庸を納める時に付けるものです。

どこの国の誰が納めたかを記しているので,
たくさんの木簡が発掘されたわけです。
それによると,事実ははっきりしていました。
7世紀〈700年〉までは〈国ー評ー里〉が使われ,
8世紀〈701年〉からは〈国ー郡ー里〉が使われていたからです。

かくして「決着がついた」とされるのが郡評論争なのですが,
よく考えて見るとこれは変で,日本書紀の内容は
事実を50年以上ずらして書かれていることになります。

郡評論争は,「決着がついた」のではなく,
「新たなスタート」が切られたというべきではないでしょうか。
なぜ日本書紀は50年以上遡らせて書いているのか?
また,それ以前の〈国ー評ー里〉の制度は,
誰が施行したものなのか?
考えてみると謎だらけです。

古代史を研究している古田武彦氏は,
「別の王朝が定めた制度かもしれない」
という考えを唱えています(九州王朝説)。

社会の科学で「ことば」にこだわるとしたら,
こんな「一文字」の違いにも注目してみると
新たな発見があるのではないでしょうか。

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