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2010年6月14日 (月)

『邪馬壱国の論理』も復刊

古田武彦氏の『邪馬壱国の論理』
(ミネルヴァ書房)が復刊されていたことは,
別に書いた。

最初のスタートは遅々としていたが,
ようやく軌道に乗ってきたのだろうか。
ぜひ古田氏がまだ元気なうちに
何冊も出してほしい。

9月には「多元」100号記念講演会も
行われると聞いている。
私も「私設応援団」として宣伝等に
がんばりたい。

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

  (傍流)太伯後の、【倭国・九州筑紫王朝・物部系<夏>】側
「邪馬壹」は、『万葉集』では、格助詞の「の」を付けて、「山の井」。

  【▲矛圏】
『魏志倭人伝(通称)』に記載は、明帝と司馬懿(→晋・中国南朝)が支持した、
(▲傍流)太伯後の、共立された女王・卑弥呼(物部系)の「邪馬壹(邪馬惟・連合国)筑紫平野」
西暦247年3月24日の「日の入り時の日食」=【卑弥呼=壹与の死を揶揄】
⇒ のちに、(復活)倭国《筑紫平野・久留米高良山(天武が築いた、神籠石あり)》

★西暦247年崩壊【西暦247年3月24日の日の入り時の日蝕(卑弥呼=壹与の死を揶揄)】
「伊都国(いづら)」=《佐賀県小城市牛津町》、東行百里の「不彌国」=【魏の城塞都市(木柵)・吉野ヶ里】
「其地無牛馬虎豹羊鵲。兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃。」=『魏志倭人伝(通称)』
 「卑彌呼以死大作冢徑百餘歩jun葬者奴婢百餘人」
=【ガラス管と剣が副葬の「1002号墳」が卑弥呼(難升米・那姫)の墓・径百歩】

  ▲卑弥呼の都・直接統治国「壹国(薩摩)★倭国は極南界」の隼人町姫城
http://photos.yahoo.co.jp/ph/zan23647/vwp?.dir=/761d&.dnm=ac0e.jpg&.src=ph&.view=t&.hires=t

【▲矛(→▲剣)圏・倭国(九州筑紫王朝)・物部系・孝徳天皇&有間皇子】、「白村江(はくすきのえ)の戦い」で、一旦滅亡。
「日出處天子(中国南朝の後継を名乗った、泉蓋蘇文(高句麗の大臣)=天武)致書日没處天子(北朝・隋の煬帝)無恙~」
「倭王・多利思比孤」=【『万葉集』の「軍王」、のちに、天武天皇】は、こちら側。
天武は、(復活)倭国王。

━…‥‥…━…‥‥…━…‥‥…━…‥…━…‥…━…‥…━…‥

  ▲【矛圏】卑弥呼の「邪馬壹国・筑紫平野」。
  ▲【矛圏】卑弥呼の直接統治国「壹国(薩摩)」の都は、現鹿児島県姶良郡隼人町姫城。
http://photos.yahoo.co.jp/ph/zan23647/vwp?.dir=/761d&.dnm=ac0e.jpg&.src=ph&.view=t&.hires=t

「55m/倭人里」を使用。《加治木 義博説》を支持。

  七〇〇〇里 帯方郡治~狗邪韓国
  一〇〇〇里(約55km)狗邪韓国~対海国《対馬》
  一〇〇〇里(約55km)対海国~一大国【壱岐・魏の直接支配地】
  一〇〇〇里(約55km)一大国~末盧国《唐津湾界隈・唐津市山本付近まで船》
   五〇〇里(約27.5km)末盧国《唐津市山本》から(東南陸行)~★伊都国(いづら)《佐賀県小城市牛津町》
《計・万五百里》=「伊都国(いづら)」=《佐賀県小城市牛津町・港でもある・魏使常駐》。
《不彌国、奴国、投馬(国)、卑弥呼の都などは、伊都国(牛津)からの★放射状説を採る》
  一五〇〇里 伊都国(牛津)~東行百里=不彌国(魏の城砦都市・吉野ヶ里)\ 
                  |\東南百里=奴国(大川市)     / 《卑弥呼の邪馬壹国・筑紫平野》 
                  |
~水行十日(一五百里)《有明海を倭人が小舟で南下「接女王国(女王国の国境)」の現八代市まで
《計・万二千里》……【▲八代市以北(「奴国・なら」の南・玉名市か熊本市以南)は、……
…… …… …… ……通行不可の、不仲の卑弥弓呼の狗奴国(旧奴国→百済)ゆえの「水行十日」】
   「余(国内)」……「接女王国(国境)」の八代市から倭人が球磨川沿いを遡り、山越えして南下、
    卑弥呼の直接統治国「壹国(=薩摩)」の都、隼人町姫城までが「余=陸行一ヶ月」=倭人の歩み。

【私見・邪馬台国の都=京都郡香春】

 【大倭(臺倭)国・九州近江(&)豊国王朝・蘇我系〔秋〕
=(臺倭=大倭国→日本国)大和朝廷】側

  【●鏡圏】
『万葉集』に記載は、斉王 芳(魏の少帝・中国北朝)が支持した、
 (●本流)季歴後の、臺与(=台与・蘇我系)の「邪馬臺(連合国)」
=【台与(→豊)国・大分県(&福岡県)】こちらが【のちの大和朝廷(いわゆる天皇家)】
★西暦248年成立【西暦248年9月5日の、日の出時の日蝕(天照大神=台与→豊の出現を揶揄)】

  ●当時の臺与の邪馬臺国の都は、京都(みやこ)郡香春(河内王陵の辺り)
  ≒現京都郡みやこ町御所ケ谷【蘇因高の、推古天皇代(隋、唐時代)に神籠石を築く】
http://www.yado.co.jp/tiiki/tikuhou/gosyogatani/gosyogatani.htm

「幻の邪馬台国」と言われる所以は、三国時代の魏の第3代皇帝・曹芳(斉王 芳の在位:239年 -254年)の
在位が短く、晋側の(邪馬壹→)倭国(山の井)に再び覇権が戻った為、邪馬台国の覇権も短かった。

以後東晋末期西晋265年司馬炎に朝貢する。
以降、「白村江(はくすきのえ)の戦い」が終わるまで、「邪馬壹」の後身・倭国側に覇権。

【鏡圏・イ妥国(臺国・九州台与(→豊)国&九州近江王朝)→大倭(臺倭)国・蘇我系】
『隋書』「イ妥国(臺国)伝」の、「小野妹子」=「蘇我卑弥呼」。
「小野妹子」は「蘇因高」=【蘇(我)の卑弥呼(「ピぃもこ」のピ音が欠落して「ぃもこ」)現代語では「ピン子」】
「東の天皇敬みて西の皇帝に白す、~」・推古天皇(額田王・太田皇女=小野妹子・蘇我卑弥呼)
こちらが、皇祖神が天照大(御)神=(天照近江神)の【大和朝廷】側。
九州近江王朝、斉明太上天皇の都は、不知火海(近江)の「御所ケ浦島」。
  大后(おほきさき)=【斉明太上天皇(安見児・鏡王女・吹黄刀自)】の御歌一首
鯨魚(いさな)取り 近江の海を 沖放(さ)けて 漕ぎ来る船 ~(巻2・153)

  【(裏は)大倭国・九州近江(&豊国)王朝・蘇我大王家(秋)聖武天皇の勅撰史書】=『万葉集』より

  河内王【聖武天皇】を豊前の国の鏡の山に葬る時に、手持女王【阿閇内親王(のちに、称徳太上天皇)】が作る歌三首
☆ 大君の和魂あへや豊国の鏡の山を宮と定むる (巻3・420)
☆ 豊国の鏡の山の岩戸立て隠りにけらし待てど来まさず (巻3・421)
☆ 岩戸破らむ手力もがも手弱き女にしあればすべの知らなく (巻3・422)
【西暦248年の西暦248年9月の「日の出時の日蝕」を踏まえている台与(天照大神)の「天岩戸伝説」を踏まえている】

☆ 豊国の香春(かわら)は我家【(わぎへ)わが皇統家】
  紐【皇緒】児(ひものこ)にいつがり居れば香春は我家 (巻9・1771)

なお、『万葉集』の巻五には、【斉王 芳(魏の少帝、・中国北朝)】の、
☆「芳命を奉(うけたま)はらむ」、☆芳音(ほういん)、☆芳旨(ほうし)、☆芳藻(ほうそう)、
☆芳席(ほうせき)等々が記載されている。
これらの「芳~」は、【(斉王)芳・魏の少帝(曹芳)・中国北朝】を下に曳いていて、
「芳命を奉(うけたま)はらむ」は、【雄略天皇(聖徳太子)=聖武天皇(大津皇子)】である。

曹芳(そう ほう、ピン音;Cao F?ng、232年 - 274年)は、字は蘭卿。
三国時代の魏の第3代皇帝(在位:239年 - 254年)で、通常は「斉王芳」と呼ばれる。

銀河 秋彩さんへ
コメントありがとうございます。

京都という地名があったり,
宇佐八幡が特別な存在だったり,
「豊国王朝」という考えにも
興味を引かれるものがありますが,
考古出土物の大量出土などの点では
いかがなのでしょうか?

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