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2010年5月 2日 (日)

「志賀島の金印」は,本当に志賀島で発見されたのか?

今古田武彦氏の『失われた九州王朝』
(ミネルヴァ書房の復刊)を
楽しく読んでいるのだが,
読者の皆さんにも少し話題をおすそ分けしよう。
興味を持っていただければ幸いである。

話題は,志賀島の金印。
博多湾に突き出る志賀島で,
江戸時代に百姓・甚兵衛によって
発見されたというが本当にそうなのか?

『失われた九州王朝』の最後に付けられた
「日本の生きた歴史(ニ)」に以下のような
新情報が載せられているので,
少し長くなるが読んでいただきたい。
そして,もし情報を知っているという方があれば,
教えていただければ幸いである。
以下,古田氏の文章の引用。(P524~6)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

金印問題について,わたしの素直な観察は次のようです。

第1,金印そのものを「後代の偽物」と見なす説もありますが,
その「立論の仕方」は,後半において「小説的手法」に
おちいっています。金印そのものは,後漢の光武帝から
送られた当の「本物」です。

第2,前原市の細石(さざれいし)神社にこの金印が
収蔵されていた,という伝承があり,信憑性が高いものです。

第3,その金印が「侍(さむらい)」によって持ち去られた,
と言われています。

第4,博多の米屋才蔵がこれを買い取り,交流のあった
津田源次郎に見せました。

第5,相談を受けた二人の知人亀井南冥は津田源次郎の
私領地の志賀島の叶の崎(「金の崎」)から出土し,
現地の百姓がこれを源次郎に”さし出した”形とし,
源次郎から黒田藩に「納入」したこととしました。

第6,亀井南冥は黒田藩のニつの藩校の「甘どう館」の
主宰者でしたが,直ちに『金印弁』を発表し,
名声を博しました。一方の(官学側の)藩校,
「修ゆう館」側の『金印議』では,この金印を
「中国から帰る途中,海中におとしたもの」といった
”荒唐無稽”の解説で評判をおとしたのです。

第7,亀井南冥は晩年,黒田藩から「閉門蟄居」の刑を受け,
苦渋の中に没しました。

第8,この問題を考える上で,重要な基礎事実は,次の五つです。

(1) 福岡県教育委員会の塩谷勝利さんは,その生涯をかけて
この「金印」の出土地を捜し求められましたが,結局どこにも
ありませんでした。甚兵衛の口上書に言う「弐人持程之石」
(二人でやっともち上げられるような石)や関連の弥生期の遺物等,
一切何もなかったのです。

(2) 甚兵衛の口上書の宛名が,ただの「御役所」ではなく,
「津田源次郎」という個人名を二回も,
特記している点も不自然です。

(3) 現在残っている口上書は,甚兵衛の「印」のみが押され,
肝心の「庄屋・組頭の三人」の「押印」がないことも不自然です。

(4) 肝心の甚兵衛の「子孫」なども,一切志賀島にいたという
「本籍」がありません。江戸時代のような「所在地・あらため」の
厳重な時代にこれは不審です。

(5) 「天明年間」から現代まで,わずか230年前後で
ある点からも,右の諸「矛盾」の存在は不審です。
みなさん,智慧をしぼってこの「謎解き」に挑戦してみて下さい。

(詳しく知りたい方は,『多元』№83と№84を参照して下さい。
安藤哲朗(045ー742ー1446)発行編集。)

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コメント

どうなのでしょう。
金印はいずれにしても九州北部の
邪馬台国と思われる箇所から発見されたのは、
先ず間違いのないところです。

金印の謎さんへ
コメントありがとうございます。

私は金印について興味があるので,
本当のところが知りたいです。
弥生時代の遺跡のない志賀島から出てきたと
伝える言い方(志賀島の金印)も
改める必要があると思います。
また,奴国の位置についても,
金印が細石神社が本当の所蔵者ということなら
平原遺跡を奴国と比定することもできます。
ひいては3世紀の「邪馬壱国」の位置も
はっきりさせることができると思うからです。

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