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2009年11月 8日 (日)

梅と桜(4)

またまた,ネット検索で収穫があった。
無尽の宝庫!?
今日はちょっと長いです。

まず,始めに「桜・さくら・サクラ・櫻」というサイトから。

「昔、サクラの咲き方や花のもちかたで、
その年の稲作の豊凶を占ったとも。
語源も、「サ」はくイネの精霊>、「クラ」は神座(かみくら)のように
<集まりこもっている>の意味ということだが、異説も多い。

そのサクラの花の散り急ぐさまが惜しまれて
詠嘆されるようになったのは、
平安時代の宮廷貴族たちから。
遺唐使が廃止され、日本独特の「国風文化」の
萌芽(ほうが:芽を出す事)と機を一にする。
渡来植物である紫宸殿前庭の左近のウメが
サクラに代わったのも、この時代。
「万葉集」には40首しか歌われなかったサクラが、
「新古今集」では百余首あるのをみても、
平安王朝人がいかにサクラを愛していたかを
知ることができる」

(肥さん) 桜の咲き方やもちかたで,
稲作の豊凶を占ったなんて知らなかったなあ。

次に,前にも登場した富永長三さんの
「梅となにはと仁徳と~盗まれた大王伝承」
という論文です。

「・・・梅の伝来は、万葉歌等によって
七、八世紀といわれている。
するとみかどの始めであり、
梅を類えて歌われる王は仁徳ではあるまい。
 
この時代、朝廷を開き、
梅を中国からもたらすことができた大王は誰か。
それは『宋書』が記す倭の五王、
その最初の大王、倭讃ではないか。
高祖永初二年(四二一)詔して曰く
「倭讃万里貢を修む、遠誠宜しく甄(あらわ)すべく
除授を賜う可し」(『宋書』倭伝)
 
壱与以来途絶えていた中国との国交を回復した大王だ。
当然『宋書』に記された事柄だけが
中国との交流のすべてではあるまい。
倭人伝の例を引くまでもなく、
さまざまな文物がもたらされたであろう。
倭国史に画期をなす時代だ。
それが「なにはづの歌」=倭讃の時代ではなかったか。
 
以上のような理解に立つと
「今ははるべと咲くやこの花」の背景が
鮮やかに見えてくる。
さきほど仁徳雌伏と成功の時代を歌った歌だと述べた。
当然それは仁徳に仮託された倭讃の姿だ。
朝廷を始めたという仁徳像は、
王権一貫を主張する『記紀』には書けなかった。
それが歌集の序文として、
この伝承が残った理由ではないか。
さらに思い至るのは、九州王朝への讃歌「君が代」もまた
一連の歌ではなかったかと(『「君が代」は九州王朝の讃歌』)。
『古今和歌集』・志賀海神社と、
二つの歌のたどった運命が
そのように語っていると思えてならない。
 
仁徳記への疑問は冒頭にふれた。
聖帝の世の意味が、唯三年の免税だけを指すのではなく、
今まで述べてきたような、
仁徳に盗まれた倭讃の業績、
とりわけ中国との関係を重ね合わせて見ると、
聖帝と呼ばれる理由が理解できるように思う。
また『万葉集』のもっとも古い歌が
磐姫の歌であることの意味も
このあたりにあるのではなかろうか。

以前わたしは『万葉集』巻五・梅花の宴の歌々が、
梅=九州王朝のシンボル、という
キーワードを挿入することによって、
新たな解釈が生まれてくることを述べた。
 
また鈴鹿千代乃氏の『筑紫舞聞き書き』からヒントを得て、
梅花の宴の淵源が、
九州王朝の「神事=梅まつり」に始まるだろうことも
述べたことがある。
その「梅まつりしも「なにはづの歌」の新たな解釈から、
倭讃の時代に始まるのではないかと今は考えている。

倭讃によってもたらされた倭国史の画期、その大王の業績は、
じつは仁徳記その他に盗用され、
まだまだ埋れているのではないだろうか」

(肥さん) たいへん魅力のある論文だが,
梅の伝来については
以下のように書くサイトもあった。

「国立歴史民族博物館」のサイト内の
「くらしの植物苑だより」

「梅が海をわたって日本にもたらされたのは、
遺跡から出土する植物の遺体から知る限り、
弥生時代に入ってからのことです。
現在の分布や歴史資料から、
中国が原産であることはまちがいありません。

その中国の前漢の時代には、
都市の緑化に品種改良された梅が
植えられたという記録もあるので、
日本にも観賞の対象となる梅が
持ち込まれたことが考えられます。

その後、唐の時代では、
松・竹とともに潔白貞節を表象するものとして
歳寒の三友(さいかんのさんゆう) とたたえられており、
古代日本に観賞用の花梅がもたらされました。
『万葉集』の 118首もの梅を詠んだ歌は、
花梅の観賞がいかに流行していたかを示しています。
奈良から京都へ遷都されてからも、
花梅は庭木として重要な存在であったことは、
紫式部などの残した多くの記録から知ることができます。

道真が左遷され、太宰府に赴く日、
書斎であった紅梅殿の傍の梅を惜しんで
「東風吹かば匂いおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ」
と詠んだことはよく知られています。
この梅の片枝が道真を慕って空を飛び、
太宰府に根を下ろしたというのが飛梅(とびうめ)伝説です。
梅は祭神道真に不可欠なものとなり、
各地の天満宮には多くの梅が植栽されるようになりました。
道真を神として祭る天神信仰は中世から近世へと高まりを見せ、
梅は信仰とともに一般に広まっていったと考えられます」

(肥さん) どこのサイトだか忘れましたが,
梅は呉音の「ウメイ」から来ているとありました。
それで「木へんに毎」と書くのかと思いました。

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