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2009年5月 2日 (土)

「君が代」は磐井に捧げられた歌ではないか

昨日届いた「多元」91号に
興味深い記事が載っていた。
岡林秀明さんの上記の文章だ。

岡林さんは,以前にも「多元」で
喜界島で発堀された遺跡を
九州王朝の亡命政府のものではないかという
興味深い指摘をされた方である。

岡林さんは最近「「磐井の乱」はなかった」と
古田武彦氏が仮説を変更されたのに対して,
九州王朝内のクーデターという考えで
異論を唱えられた。

その証拠としていくつも書かれているのだが,
最後に「君が代」のことが出てくる。
「さざれ石のいわほとなりて」
という最大の謎の部分についてのことである。

確かに自然現象として,
さざれ石がいわほとなることはありえない。
また,それが古代の人の考え方だという証拠は
どこにもないのである。

一方古事記によると,
磐井のことを石井と書いている。
それを日本書紀の磐井と同じとして
私たちは「いわい」と読んでいる。
しかし,これは本来は「いしい」でよいのではないか。
落語家や歌舞伎役者が実力をつけていくうちに
名前を変えるように,
若い頃「石井」を名乗っていたこの王者は,
実力をつけて(あるいはクーデターで王位を奪って)
「磐井」を名乗るようになった。
そのことを「君が代」は歌にして
読んでいるのではないかというのである。

実は,「君が代」は「石井」から「磐井」へと
名前を改めた九州の王者への讃歌だった。
この説,どう思いますか?

なお,万葉集の147番には,
阿毎多利思北孤(「隋書」に登場する倭国の王)の
歌が出てくるそうである。
「天の原ふりさけ見れば大君の
御命(みいのち)は長く天足らしたり」
最後の部分に王者名が読み込まれている
という訳だ。

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

 古田さんが「磐井の乱はなかった」と仮説を変更されたのですか。どこかで聞いたような気がします、九州の王者が物部氏だったことを跡付けるために、この乱が作られたとか?。詳しくは何に載っていますか? 君が代が磐井に対する賛歌という仮説も面白いですね。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

私の持っているものでは,
『新・古代学』第8集の中に
「新しい探究の出発」という講演録があり,
それにこの件が出ていました。
2003年8月31日にこの考えに到着したとのこと。
ずいぶん前のことですね。

岩戸山古墳の石像の破壊は
7世紀の白村江の戦い後の唐の占領軍が
行ったものであり,
6世紀の「磐井の乱」の際のものではない。
この記事は唐の占領軍に配慮して造作したものである,
ということだったと思います。

従来の古田氏の「磐井の乱」は「継体の乱」であった,
という大義名分論が魅力的だったのですが,
考古学的変化がないといえばなかったですね。

 「磐井の乱はなかった」に到達した年次を教えて頂いたので古田史学会報を新古代学のサイトで見てみました。たしか2005年の64号かな。批判に答えて古田氏が新説のポイントを説明していました。考古学的遺物で見ると北九州には6世紀中ごろに断絶はない。その後も続いた九州王朝が、磐井の墓が荒らされた状態を放置しておくわけがない。と考えて行くと、磐井の墓が荒らされたのは7世紀末の唐による占領の時、そして筑後風土記の体に障害のある人多数の記事は、6世紀中ごろの名残ではなくまさしく白村江の敗戦と唐の占領の傷跡。そう考えると、日本書紀の「磐井の乱」の記述自体が捏造だと。あと一つ僕の考え。6世紀の中ごろに一度九州王朝に反旗を翻し王を殺害した大和王朝を、九州王朝が友軍としてあつかい、白村江の戦いの後詰を任せるはずがない。それこそ敵を内部に引き込んだのと同じ。大和王朝が九州王朝に反旗を翻したのは、まさに白村江の敗戦の後の話だと思いました。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
> あと一つ僕の考え。6世紀の中ごろに
> 一度九州王朝に反旗を翻し王を
> 殺害した大和王朝を、
> 九州王朝が友軍としてあつかい、
> 白村江の戦いの後詰を任せるはずがない。
なるほど,その通りですね。
これでますます「磐井の乱」がなかった証拠が
そろったわけです。

古田さんの「磐井の乱はなかった」説への転向は知ったときちょっとびっくりしました。
私自身、日本書紀と風土記の磐井に関する記述の大きな差から、「別の事件を誤り伝えたのかな?」と思った時期もあったのですが。
古田さんの説は日本書紀と風土記ともに「磐井の乱はなかった」との立場なんですよね。
とすると、これに関連して、継体紀の「日本天皇と太子、皇子が俱に死んだ」という記述について、従来の古田説とは別の解釈をしなければならなくなりますが、古田さんはどうされているのでしょうか。
ちょっと気になります。

ツォータンさんへ
コメントありがとうございます。
古田史学会報NO.46に載っている
古田氏の論文「批判のルール」には,
この件について「別述」との記載がありますが,
その後どこに書かれたのか私は知りません。
日本天皇,太子,皇子が死んだとなると,
戦争か伝染病ぐらいしか思いつきませんが・・・。

 この記事は「百済本紀」による記載でしたね。辛亥の年にという。ということは531年の60年後かもしれないし120年後かもしれない。いや60年前かもしれないということです。どの年に比定するかが再度問題になる。それと、これが九州王朝の出来ごとだとすると、「九州王朝内部のクーデター」という仮説がでるのでは。多元91号の岡林秀明さんのクーデター説は、何を資料的根拠にして展開しているのでしょうか。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
「多元」91号の岡林秀明さんの論文は,
「つづく」で終わっています。
次号以降に自説(九州王朝内の
クーデター説)を
展開するものと思われます。

川瀬さんへ
「多元」91号の岡林秀明さんの文章を
もう一度読んでみたら,「多元」84号に
「「磐井の乱」は本当になかったか」
という文章を書かれていることがわかりました。
さっそく「多元」84号を見てみると,
岡林さんは『筑後風土記』を軸に据えて
考えているようです。
つまり,九州王朝内には倭王武や筑紫君磐井が
率いた「親中国(南朝)派」と
中国の力を借りない「独立派(国粋派)」の
対立があって,後者が前者に
クーデターを行ったということになります。
このクーデターは成功し,「日本天皇,太子,
皇子・・・」という事態に。
一度は葛子が王位を継ぐが,傀儡政権で,
その後「独立派」が王位を
(禅譲という形か)奪う。
九州王朝のトップについた雄大迹天皇は,
中国に依存しない国づくりを始め,
九州年号もスタートする。
だから,造作ではなく九州王朝内の
クーデターがあった記事を盗用したものだ
という結論になるようです。

なるほど。でも九州王朝内部のクーデター説には資料的根拠がありませんね。筑後風土記の記事をそのまま信用した上で、百済本紀の「日本天皇・太子・皇子ともに死ぬ」の記事を九州王朝のことと考えてクーデターではないかと推論しただけ。でもここにある「日本」は九州王朝ではないと思います。古田氏がこれを九州王朝だとしたのは、旧唐書の倭国日本伝の「日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるをもって、故に日本をもって名となす。或いは云う。倭国自ら名の雅ならざるをにくみ、改めて日本となすと。或いはいう。日本はもと小国。倭国の地を併せたりと。」の記事の、倭国自らが国名を日本国に改めたとの伝聞を正しいとした結果。しかしこの旧唐書の記事の「日本はもと小国。倭国の地を併せたり」を重視すれば、百済本紀の日本は大和を指していると考えられます。
 そうしてみると辛亥の年の前後(この頃ですから)に大和で天皇・太子・皇子が一度に(すこし時間があいても直近なら一度にと同じ)死んだ事件がないかと調べてみると良いのでは。531年の辛亥の年は欽明の即位という記録もあるので、異母兄の安閑・宣化と王位を争って戦いになった可能性があり、これを指している可能性が高いと思います。591年の辛亥の年に近いところでは、崇俊の暗殺がある。651年の辛亥の年に近いところでは、いわゆる「大化の改新」ただしくは乙巳の変があり、蘇我氏本家の滅亡と王位継承者古人大兄皇子の粛清があります。
 古田氏の「磐井の乱はなかった」に対して資料的根拠がないままに九州王朝内クーデター説を出すのではなく、古田氏の磐井の乱は継体の乱だったという従来の仮説の前提条件を一つ一つ洗いなおして、資料の意味づけをきちんとして仮説を立て直すことが必要だと思います。これが古田さんの学問の方法を継承した正道だと思うのですが。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
> 古田氏の「磐井の乱はなかった」に対して
> 資料的根拠がないままに九州王朝内
> クーデター説を出すのではなく、
> 古田氏の磐井の乱は継体の乱だった
> という従来の仮説の前提条件を
> 一つ一つ洗いなおして、
> 資料の意味づけをきちんとして
> 仮説を立て直すことが必要だと思います。
> これが古田さんの学問の方法を継承した
> 正道だと思うのですが。
なるほど,その通りですね。
古田さんの学恩に応えるためにも
正道を歩むべきでしょう。
しかし,それにしても古田氏の
大義名分論からの転身が
ショックだった人が少なからずいて,
何人もの方がそれを表明していますね。
私自身もそうでしたが・・・。

 古田氏の説の転換にショックを受けるということは、彼の学問的方法に共鳴しているというより、彼の説のもつ「政治的意味合い」に共鳴しているという側面を持つと思います。つまり大和一元史観・もともとの皇国史観に対する反撃に共感するという心情。だから古田氏の「転換」に従って、古田説を支持する人々やグループに分裂が起こるのですよ。東日流外三郡誌の時もそうでしたね。
 古田氏自身は氏の方法論(これが歴史学のあるべき方法論だとおもいます)に従って常に自己の仮説も点検の俎上に載せ、より素直に資料を理解できる方向に、自説の再構築を行っているだけだと思います。歴史の研究には、一切の価値観・イデオロギーは介在させてはいけないと思います。

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