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2008年11月19日 (水)

50年遡ったワケ

『日本書紀』によれば
大化の改新から「郡」が始まったはずなのに,
実際は700年まで「評」が使われていたのは
木簡の明らかにしたところである。

しかし,なぜ50年「郡」を遡らせたのかは
よくわかっていなかった。
それを「新古代学の扉」というサイトの中で
古賀達也さんが明らかにしてくれているので,
長文になるが転載しよう。

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「大化改新詔」50年移動の理由   古賀達也

 第140話 「天下立評」で紹介しましたように、
評制が難波朝廷(孝徳天皇)の頃、
すなわち650年頃に施行されたことは、
大和朝廷一元史観でも有力説となっています。

これを多元史観の立場から理解するならば、
九州王朝がこの頃に評制を施行したと考えられるのです。
その史料根拠の一つである、延暦23年(804)に成立した
伊勢神宮の文書『皇太神宮儀式帳』の
「難波朝廷天下立評給時」という記事から、
それは「難波朝廷」の頃というだけではなく、
前期難波宮九州王朝副都説の成立により、
文字通り九州王朝難波副都で
施行された制度と理解できます。

 太宰府政庁よりもはるかに大規模な
朝堂院様式を持つ前期難波宮であれば、
中央集権的律令制としての
「天下立評」を実施するのにまったく相応しい場所と
言えるのではないでしょうか。
そして、この点にこそ『日本書紀』において、
大化改新詔が50年遡らされた理由が隠されています。

 九州年号の大化2年(696)、
大和朝廷が藤原宮で郡制施行(改新の詔)を宣言した事実を、
『日本書紀』編纂者達は50年遡らせることにより、
九州王朝の評制施行による中央集権的律令体制の
確立を自らの事業にすり替えようとしたのです。
その操作により、九州王朝の評制を
当初から無かったことにしたかったのです。

『日本書紀』編纂当時、新王朝である大和朝廷にとって、
自らの権力の権威付けのためにも、
こうした歴史改竄は何としても
必要な作業だったに違い有りません。

  このように考えたとき、「大化改新詔」が
50年遡らされた理由が説明できるのですが、
しかしまだ重要な疑問が残っています。

それは、何故『日本書紀』において
前王朝の年号である大化が使用されたのか、
この疑問です。
九州王朝の存在を隠し、
その業績を自らのものと改竄するのに、
なぜ九州年号「大化」を消さなかったのでしょうか。

 これは大変な難問ですが、
わたしは次のような仮説を考えています。
藤原宮で公布された「建郡」の詔書には
大化年号が書かれていた。この仮説です。

恐らくは各地の国司に出された建郡の命令書にも
大化2年と記されていたため、
この命令書が実際よりも50年遡って
発行されたとする必要があり、
『日本書紀』にも「大化2年の詔」として、
孝徳紀に記されたのではないでしょうか。

 しかし、この仮説にも更なる難問があります。
それなら何故、藤原宮で出された「改新詔」に
他王朝の年号である大化が使用されたのかという疑問です。

わたしにはまだわかりませんが、
西村秀己さん(古田史学の会全国世話人、向日市)は
次のような恐るべき仮説を提起されています。
「藤原宮には九州王朝の天子がいた」という仮説です。
すなわち、「大化改新詔」は形式的には
九州王朝の天子の命令として出された
のではないかという仮説です。
皆さんはどう思われますか。
わたしには、ここまで言い切る勇気は
今のところありません。
これからの研究課題にしたいと思います。

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元気が出ないことが多い毎日ですが,
こういう研究の話を聞くと
私もがんばらなければと元気が湧いてきます。
ぜひ古田史学を多くの方に知っていただいて,
ともに研究していけたらと思います。

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コメント

「藤原宮には九州王朝の天子がいた」
との西村秀己氏の仮説は私も別の方向から賛同したいと思います。

別方向とは、以前から私は常々「高松塚古墳」「キトラ古墳」などの被葬者は九州王朝の皇族(おそらく天子かそれに準ずる身分の人)ではないかと考えているからです。
これら古墳は石室に四神像が描かれていることで有名ですが、北に玄武、南に朱雀という配置は中央に天子を置くべき構図で、そこに天子が葬られているから、石室に四神像が描かれた、と考えてみたわけです。

もっとも、四方四神について「絶対に天子でなければ描くことが許されないのか?」と反論されれば、「絶対とはいえないかも・・・」と弱腰にならざるを得ず、論証としてはやや弱いかもしれませんが(汗)

ツォータンさんへ
コメントありがとうございます。
> 以前から私は常々「高松塚古墳」
> 「キトラ古墳」などの被葬者は
> 九州王朝の皇族(おそらく天子か
> それに準ずる身分の人)ではないかと
> 考えているからです。
なるほど。これらの古墳の被葬者が
九州王朝関係者というわけですか。
それは興味深い仮説ですね。
私はそういう観点で考えたことは
ありませんでした。

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