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2008年7月20日 (日)

「続日本紀」を読もう(2)

今日の話題は,
「評制から郡制へ」である。

698年3月9日,以下の記事が出てくる。

「筑前国の宗形と出雲国の意宇の両郡の郡司は,
共に三等以上の親族を続けて任用することを許す。

また,翌3月10日の記事には,

「諸国の郡司を任命し,次のように詔をされた・・・」

ちょっと歴史を勉強した人なら,
昔は評制(国・評・里)だったが
ある時から郡制(国・郡・里)に変わった
ということを記憶されているだろう。
(発掘された木簡によると,
700年までは評制が行われ,
701年から郡制に変わるということだ)

上の記事は,その郡制の役人である郡司の任命を
大和が行ったという華々しい記事なのである。
だが,ことはそれだけでは済まない。

では,それ以前の評制は誰が作ったのか,
記紀も「続日本紀」も黙して語らないからである。

ただ,そのヒントが700年6月3日の
「続日本紀」の記事に出てくる。

「薩末の比売・久売・波豆・衣評の督の衣君県・
同じく助督の衣君弖自美,また肝衝の難波,
これに従う肥人らが武器を持って,
さきに朝廷から派遣された?(不の下に見)国使の
刑部真木らをおどして,物を奪おうとした。
そこで筑紫の惣領に勅を下して,
犯罪の場合と同じように処罰させた」

この中に出てくる評督と助督が,
評制の位らしいことが分かるからである。
そして舞台は九州。
だから,その地で評制が誕生したことは
非常に可能性が高いと思われる。

おそらく評制が創設された時,
九州王朝の歴史書は
そのことを華々しく書いたことであろう。
しかし,大和の日本書紀の編纂に当たって,
その記事は当然カットされた。
だって,そんなことを載せたら
九州王朝の先在がばれてしまうから。

歴史書というのは,すべてのことが
書かれているわけではない。
国家権力がその国の国民に
どのような歴史像を描かせたいか
という観点で書かれるものだ。
それを頭に置いておかないと
書いてあることだけに目を奪われ,
「書かれていないこと」が見えてこないのだ。
そういう意味で日本の古代史は,
今なおスリリングな研究対象であると思う。

明日は,「大宝年号の「建元」」
について書きます。
(7/20)

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

 肥さんが示された、700年6月3日の記事は、薩摩と肥の国の人々は今だ大和には従わず、肥の国では評を統べる評督の地位にある豪族=「君」を指導者にした戦いになったという記事ですね。いわゆる「隼人反乱」。そして興味深いことですが、薩摩の指導者が、「比売・久売」と女性名であることです。
 700年=文武天皇4年になっても肥の国が「評」と表示されていることはこの地が今だ九州王朝の統治下にあるということと、薩摩の指導者が「比売・久売」という女王であり、いまだ邪馬一国時代の様相も呈しており、薩摩の国はいまだに相対的にも九州王朝から独立した同盟国という意味合いを持っていることを示していて、興味深いですね。

文武天皇四年六月。薩末比売久売波豆衣評督衣君縣、助督衣君弖自美、又肝衝難波、従肥人等、持兵剽却覓國使刑部真木等。於是勅竺志惣領、准氾決罰。
(漢字、すべて表記されてるかな?)

この条文を初めて自分で解釈しようとして、
『なんとまあ、初めて倭人伝を読んだ時の感覚に似ていることか』
と思ったものです。
前半部の「薩末比売久売波豆衣評督衣君縣、助督衣君弖自美」だけでも、いったい登場人物が何人なのか、学者によって解釈がまちまちですよね。

私は現代学者の解釈がそうなる理由を、この条文が「外国の官職名を直接引用したから」と考えています。
つまり「衣評督」「助督」「衣君」などは近畿ヤマトから見て

「外国の行政機関の外国の官職名」

だからだと。
だから私は古田氏が倭人伝など中国側資料を解釈した方法に従い、

薩末比売(官職名)・久売波豆(名前)
衣評督衣君(官職名)・縣(名前)
助督衣君(官職名)・弖自美(名前)

だと解釈しました。あるいは

薩末比売(王名)・久売波豆(名前)
衣評督(官職名)・衣君(姓)・縣(名前)
助督(官職名)・衣君(姓)・弖自美(名前)

かも知れませんが、解釈としては同じでしょう。
この表記法が九州王朝側が資料に記述する際の一貫した表記ルールなんだろう、と思うわけです。


かつて「郡評論争」という坂本太郎氏と井上光貞氏との間で激しい論争があり、木管の出土によって決着が付いたことは有名ですね。

でも、古田氏が
『「郡評論争」は郡と評の前後関係が判明したに過ぎず、学問的には本当に決着などしていない』
と述べておられることは九州王朝説支持者以外にはあまり知られていませんね。

私はこの文武天皇四年六月条を読むたびに、古田氏の「郡評論争はまだ決着していない」という言葉を痛感するのですが…。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
> 700年=文武天皇4年になっても
> 肥の国が「評」と表示されていることは
> この地が今だ九州王朝の統治下にある
> ということと、薩摩の指導者が
> 「比売・久売」という女王であり、
> いまだ邪馬一国時代の様相も呈しており、
> 薩摩の国はいまだに相対的にも
> 九州王朝から独立した同盟国という
> 意味合いを持っていることを示していて、
> 興味深いですね。
1つの事件の紹介から,様々な当時の関係が
読み取れるわけですね。
こういう部分には,著者の「歴史捏造」は
入りにくいと思われます。

ツォータンさんへ
コメントありがとうございます。
> この表記法が九州王朝側が
> 資料に記述する際の一貫した表記ルール
> なんだろう、と思うわけです。
「一貫した表記ルール」というのは
魅力的ですね。
> 私はこの文武天皇四年六月条を読むたびに、
> 古田氏の「郡評論争はまだ決着していない」
> という言葉を痛感するのですが…。
本当にそうですね。歴史を研究する人は,
ぜひ古田史学から学んでほしいものです。

ツォータンさん。コメントありがとうございます。古田さんは、そう読んでいるのですね。「薩摩比売」という官職名か王名ね。そして次の「久売波豆」が名前ね。それでも女性名ですね、確実に。以下の衣評の役人の名前は僕のそう読みました。かつて衣君が治めていた独立国が九州王朝の傘下に入って衣評となったわけですからね。これは大和朝廷でも、○郡を治める郡司が、○の君なにがし、と表記されていることでわかりますね。

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