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2008年7月28日 (月)

「続日本紀」を読もう(10)

今回は「藤原広嗣の乱の舞台」
について書こうと思う。

740(天平12)年9月3日,
大宰の少弐として九州に飛ばされた
藤原宇合の長子・藤原広嗣が乱を起こした
と「続日本紀」は伝えている。
(同年8月29日に真備と玄昉を
追放することを言上したが,
入れられなかったためとされる)

反乱の際広嗣が頼りにした勢力は,
どこの地方の人々だったのだろうか。
それが「続日本紀」に書いてある。
同年10月9日の記事である。
かいつまんで書くと以下の3つだ。

(1) 広嗣自身の率いた軍勢~
大隅・薩摩・筑前・豊後など5000人

(2) 綱手(広嗣の弟か?)の率いた軍勢~
筑後・肥前など5000人

(3) 多胡古麻呂の率いた軍勢~
不明

3番目の多胡古麻呂の率いた軍勢は
不明とされているが,
もし同じ5000人だとしたら
合計15000人もの軍勢が
九州各地から集められたことになる。
ものすごい人数だ。

ではなぜ広嗣は,これほど多くの人々を
短期に徴収することができたのだろう。
それは表向きには書いていないが,
彼はかつての九州王朝の力を頼りにして
乱を起こしたように思えてならない。
(乱自体は約2ヶ月で鎮圧されてしまったが)

742(天平14)年正月5日,
大宰府が廃止された。
廃止した府の官物は筑前国府に
付託されたようであるが,
その理由が書いてない。
(講談社学術文庫には「広嗣の乱に関係が
あったと思われる」と訳者の宇治谷孟氏の
コメントが付けられている)

大宰府が復活するのは
745(天平17)年6月5日のことであるから,
3年半ほど大宰府は政治が行えず,
744(天平16)年正月23日からは
鎮西府によって管理されたことが
伝えられている。

その後,西国方面への憂いを取り除いた
聖武天皇をはじめとする大和勢力は,
各地への遷都や大仏建立・総国分寺としての
東大寺建立に取り組むことになる。

今まで10回にわたり「「続日本紀」を読もう」
という題で連載してきました。
私自身の勉強不足や不行き届きから,
あまりお役に立たなかったかもしれませんが,
「日本の古代史にはまだ謎が多いらしい。
少し勉強してみようかな」と
少しでも思っていただければうれしいです。
私自身は楽しい10日間を過ごすことができました。
コメントいただいた皆さん,
おしまいまでお付き合い下さった皆さん,
どうもありがとうございました。
(7/28)

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

受験勉強することなく、中学から併設の高校に進み、大学受験では英語と小論文だけしか受験科目になかった大学を選び、日本史についてはほとんど知識のないままに大人になってしまった私です。先生の連載を読んで、やはり日本人として知っておかねばならない基本的なことに改めて気づきました。というわけで、この夏休みの宿題が増えてしまいました。(苦笑)

人との新しい出会いは、自分の世界を広げてくれるチャンスですね。以前「かわら版」に載っていた茨木のり子さんの詩との出会いも、私にとって衝撃的でした。50歳からハングル語に一心不乱に取り組んだエネルギーもすごいですね。実習中、学級文庫にあった詩集も読ませていただきました。「落ちこぼれ」という詩が特にお気に入りです。

元実習生Aさんへ
コメントありがとうございます。
歴史という新たな「宿題」を
プレゼントしてしまってどうもすみません。
でも,歴史の研究って暗記じゃないのですよ。
真実の歴史を知る楽しさを
生徒たちにも味わってほしいです。
茨木のり子の詩は金八先生の最新シリーズで
取り上げてくれたので,
若い人たちに知ってもらえてよかったです。

ありがとうございます。
>744(天平16)年正月23日からは
>鎮西府によって管理されたことが
>伝えられている。
鎮西府とは何ですか?

あじすきさんへ
コメントありがとうございます。
西海道が五畿七道で九州地方のことですから,
「広嗣の乱でみだれた西海道」を鎮める役所
ということだろうと思います。
なお初出はひと月早くて
743(天平15)12月26日でした。
ごめんなさい。

続日本紀は実は手元にないので実際に調べたことはありません。
なので私の知識は主に永井路子女史の小説だったりしますが、その点ご容赦をお詫びして「続日本紀」に対する一つの疑問点を述べてみたいと思います。

奈良時代、大臣クラスの高位ポストにやけに空席が目立つなぁ、ということです。
律令施行してまもなく、という時代だから空席が多いのもやむを得ない、という意見もあるのかも知れません。
しかし「定説」では王朝の断絶などなく、
「ずーっと近畿天皇家が支配してきた」
はずなのですから、重要ポストに空席が目立つのはおかしい。
実際にその時代の人が律令を作るとしたら、少なくとも大臣クラスが空席になるような律令は作らないでしょう。

この疑問点を解消するとしたら・・・

1)どこかで施行されていた律令を模倣して作った
2)本当は空席など無かったのだけれど、何らかの理由でそれらのポストに就いていた人たちの名前は記録に残せなかった

この2点しかないように思われるのですが・・・。

ツォータンさんへ
コメントありがとうございます。
> 奈良時代、大臣クラスの高位ポストに
> やけに空席が目立つなぁ、ということです。
それ,表かグラフにできないでしょうか。
一目瞭然にわかる資料となると思いますが。

    太政大臣       左大臣        右大臣

690 高市皇子      多治比嶋       (空席)
696 高市皇子      多治比嶋       (空席)
697 (空席)       多治比嶋       (空席)
701 (空席)     多治比嶋/(空席)   阿倍御主人
702 (空席)       (空席)       阿倍御主人
703 忍壁親王      (空席)       阿倍御主人
704 忍壁親王      (空席)       石上麻呂
705 忍壁親王/穂積親王 (空席)      石上麻呂
707 穂積親王      (空席)       石上麻呂
708 穂積親王     石上麻呂   石上麻呂/藤原不比等
709 穂積親王      石上麻呂       藤原不比等
715 穂積親王      石上麻呂       藤原不比等
716 (空席)       石上麻呂       藤原不比等
717 (空席)       石上麻呂       藤原不比等
718 (空席)       (空席)       藤原不比等
719 (空席)       (空席)       藤原不比等
720 舎人親王      (空席)       藤原不比等
721 舎人親王      (空席)       長屋王
723 舎人親王      (空席)       長屋王
724 舎人親王    (空席)/ 長屋王   長屋王/(空席)
729 舎人親王      長屋王       (空席)
730 舎人親王      (空席)       (空席)
734 舎人親王      (空席)       (空席)
735 舎人親王      (空席)       藤原武智麻呂
736 (空席)       (空席)       藤原武智麻呂
737 鈴鹿王  (空席)/ 藤原武智麻呂  藤原武智麻呂
738 鈴鹿王       (空席)      橘諸兄
742 鈴鹿王       (空席)      橘諸兄
743 鈴鹿王   (空席)/ 橘諸兄     橘諸兄/(空席)
744 鈴鹿王       橘諸兄       (空席)
745 鈴鹿王       橘諸兄       (空席)
746 (空席)      橘諸兄        (空席)
748 (空席)      橘諸兄        (空席)
749 (空席)      橘諸兄       藤原豊成
756 (空席)      橘諸兄       藤原豊成
757 (空席)     藤原豊成       藤原豊成
758 (空席)     藤原仲麻呂      (空席)
759 (空席)     藤原仲麻呂      (空席)
760 藤原仲麻呂  藤原仲麻呂/(空席)  (空席)
761 藤原仲麻呂    (空席)       (空席)
763 藤原仲麻呂    (空席)       (空席)
764 藤原仲麻呂    (空席)       藤原豊成
765 弓削道鏡     藤原豊成       藤原豊成
766 弓削道鏡     藤原永手   藤原永手/吉備真備
767 (空席)      藤原永手       吉備真備
769 (空席)      藤原永手       吉備真備

やっと完成しました。あーつかれた(汗)
さて私なりに解説を(無謀!)
太政大臣というのは「常置の職」ではないとされるので空席であってもいいと思うのだけれど(皇族の太政大臣は知太政官事という特別な呼称があり、名誉職のようなものだと思われる)、その際は左大臣が太政官の最高位になるはずで、これが空席というのはいかがなものだろうか。

文武天皇即位の697年、太政官は左大臣・正広弐・多治比嶋のみで太政大臣、右大臣は空席。
そして701年(大宝元年)3月、大宝令の施行に伴い、官位が改められました。
左大臣・正広弐・多治比嶋は正正二位・左大臣へ。
また大納言・正広参の阿倍御主人が正従二位・右大臣へ。
ところが左大臣多治比嶋は7月に死亡してしまい、大宝律令が完成した時、太政官は右大臣(阿倍御主人)が一人のみで太政大臣も左大臣も空席。

・・・果たしてこんな廟堂で、若き帝王・文武と老女帝・持統による「新律令体制」の政治を支えることが出来たんだろうか? という疑問がわき起こらないでもありません。

ちなみにこの時、中納言・直広壱・藤原不比等は正正三位・大納言へ。
同じく中納言・直大壱・石上麻呂も正正三位・大納言へ。
また中納言・直広弐・紀麻呂までもが正従三位・大納言へ。
しかし不比等よりも上位にいた中納言・直大壱・大伴安麻呂は正従三位と不比等より下位に列せられ、しかも大納言になれず、おまけに中納言が廃止されたために散位(現職なし)という悲運を味わいます。
大納言の定員は4人。1人分が空席なのに(笑)

703年に阿倍御主人が死に、704年(慶雲元年)1月7日、従二位・大納言・石上麻呂が右大臣に任命されます。
しかし左大臣は依然として空席。
その後、新たに令外官として「参議」が加えられたり、大納言の定員が4人から2人に減じられ、また中納言が復活し、とゴタゴタしたことが続きます。

・・・そんなことする前にまず空席の左大臣を埋めろよ、と思うのは私だけでしょうか(笑)

708年(和銅元年)ようやく左大臣に石上麻呂が、そして大納言・藤原不比等が右大臣となり、知太政官事の穂積親王とともに太政官3ポストが揃います。

・・・はて? 石上麻呂は近江朝に近い人で、壬申の乱の時は最後まで天武側と戦った人なんだけど? 不比等も鎌足の子で明らかに近江朝側の人物だよなぁ・・・という疑問が湧いてくるのは私だけでしょうか(汗)
 ちなみに穂積親王も父こそ天武帝だけど、母の父は近江朝の重臣・蘇我赤兄でやはり近江朝に近い人ということになります。
石上麻呂が亡くなってからの廟堂は、定説では不比等の独壇場?
太政大臣- 空席
左大臣 - 空席
右大臣 - 藤原不比等
大納言 - 空席
中納言 - 粟田真人
中納言 - 阿倍宿奈麻呂

・・・独壇場のわりには、不比等さん、なぜか左大臣になれない?

そして718年(養老2年)長屋王が阿倍宿奈麻呂と共に大納言に任ぜられる。
720年、不比等死。長屋王が右大臣になるも藤原四兄弟はまだ参議にすらなってない。
そして長屋王はあっさりと左大臣へ。
不比等さんがなれなかった左大臣に、廟堂経験の浅い長屋王がアッサリと・・・。

しかしご存じの通り、長屋王は陰謀によって自刃してしまい(長屋王の変)、その後の廟堂はごらんの通り。

太政大臣- 舎人親王(知太政官事)
左大臣 - 空席
右大臣 - 空席
大納言 - 阿倍宿奈麻呂
大納言 - 藤原武智麻呂

・・・・・・・・ ・・・・・・・・ ・・・・・・・・
定説ではこの後「藤原四兄弟」が政権を握った、とあるんだけれど、左大臣・右大臣が空席というのはいかがなのもか。
しかも737年、天然痘の猛威により四兄弟はもとより廟堂の高位高官はほとんどが死滅してしまう。
天然痘の流行による「空席」は、まあしかたがない、と私も思う。
しかしそれ以前の政府中枢の「空席」の多さは、やはり異様な気がするんだけど、いかがでしょうか。
(この後、ツォータン母校の甲子園登場により酔っぱらって解説不能の事態に陥る)

ツォータンさんへ
資料作成&長文のコメント
どうもありがとうございました。
「空席が目立つ」と言うだけなら簡単ですが,
このような資料を作って下さると
説得力がまったく違ってきます。
左大臣についてはほぼ5割の「空席率」!
やはり7世紀後半~8世紀前半は
尋常ならぬ時期だと思いました。

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