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2008年7月21日 (月)

「続日本紀」を読もう(3)

701年3月21日の記事に,
有名な大宝年号の建元記事が出てくる。

「対馬嶋が金を貢じた。
そこで新しく元号をたてて,大宝元年とした」

唐の律令をまねた大宝律令の
スタートの年として,
知らない人はないだろう。
ここから日本の年号は始まった!

ところが,よく考えてみると
これは不思議な記事だったのである。
大宝が建元なら,
それ以前に登場する大化,白雉,朱鳥の
3つの年号は何だったのだろうと・・・。
当然その疑問が浮かんでこなければ
いけなかったのである。
(私は古田史学の会の古賀さんから
教えていただいてあわてた)

日本書紀には正直にこう書いてある。

改元して大化。
改元して白雉。
改元して朱鳥。

大化から始まったと思っていた年号は,
実は改元であったことが
ここにはっきり出ていたのであった。

だが,そうすると大化の以前にも
建元された年号があったことになる。
それはどこの王朝が作ったものだったのか。
また,どんな年号がどのように
続いてきたのだろうか。
実は,それらは古田武彦氏と
市民の研究者によって史料発掘されている。
「九州年号」と呼ばれるものだ。

これは九州王朝が200年近くにわたって
連綿と建元・改元を続けたもので,
各地の寺社の創設記事などに
しっかりと現存している。
次に,31の年号すべてに
登場してもらおう。

継体・・・517~521年(5年間)
善記・・・522~525年(4年間)
正和・・・526~530年(5年間)
教到・・・531~535年(5年間)
僧聴・・・536~541年(5年間)
明要・・・541~551年(11年間)
貴楽・・・552~553年(2年間)
法清・・・554~557年(4年間)
兄弟・・・558年(1年間)
蔵和・・・559~563年(5年間)

師安・・・564年(1年間)
和僧・・・565~569年(5年間)
金光・・・570~575年(6年間)
賢接・・・576~580年(5年間)
鏡当・・・581~584年(4年間)
勝照・・・585~588年(4年間)
端政・・・589~593年(5年間)
告貴・・・594~600年(7年間)
願転・・・601~604年(4年間)
光元・・・605~610年(6年間)

定居・・・611~617年(7年間)
倭京・・・618~622年(5年間)
仁王・・・623~634年(12年間)
僧要・・・635~639年(5年間)
命長・・・640~646年(7年間)
常色・・・647~651年(5年間)
白雉・・・652~660年(9年間)◆
白鳳・・・661~683年(23年間)
朱雀・・・684~685年(2年間)
朱鳥・・・686~694年(9年間)◆

大化・・・695~700年(6年間)◆

◆の3年号は順番も変えて,
日本書紀のなかにはめ込まれている。
しかし,大宝を建元としたところから,
すべての矛盾がはっきりしてしまった。

さすがに当時使われていた九州年号を
無視することはできず,
聖武天皇の詔の中にも登場させている。
その記事が「続日本紀」の中にある。

明日は「聖武天皇の詔に登場する
九州年号」について書く予定です。
(7/21)

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

「金光」の年号は、平家物語の善光寺の縁起の中で、善光寺が作られた時代として受け継がれていましたね。白鳳などは、美術史ではどうどうと使われている。それにしても、九州年号はなんと仏教関連の言葉が多いことか。この国が仏の教えを建国の柱ということが、年号に良く示されています。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
> 白鳳などは、美術史では
> どうどうと使われている。
私は仏像が好きなので,「白鳳が九州年号」と
聞いてびっくりしました。
> それにしても、九州年号はなんと
> 仏教関連の言葉が多いことか。
> この国が仏の教えを建国の柱ということが、
> 年号に良く示されています。
本当にそうですね。
そういう意味でも,「1つの統一国家が作った
年号」という資格にじゅうぶん合っていますね。

以前ここで肥さんの『「大宝建元」の論理』で知ったことなのですが、
「大化」「白雉」「朱鳥」の3年号には「改元」と書かれていたのですね。
(大宝建元の方は知っていたのですが)

私自身の中国史は多く陳舜臣さんの著書から得たものが基礎になっているのですが、それでも「建元」と「改元」の違いはハッキリと認識しています。
だから『「大宝建元」の論理』を読ませてもらった時、

ヤマト政権の高位高官連中は「建元」と「改元」の意味もわからぬ、ド田舎者の政権だったのかあ?

などと想像し思わず笑ってしまいました(笑)
というか、大唐の高官たちが「日本書紀」を読んだら、
「なんだこりゃ?」
と私と同じ感想を持ったと思いますよ。

思うに、編纂された当初の「日本紀」は、九州王朝系の記事も堂々と掲載されていたけれど、ヤマト朝廷側の方針転換か何かでバッサリと削られて今の形(日本書紀)になったのかなあ?
などと想像したりもします。
「系譜一巻」がまるまる失われているのも不思議ですしね。

「奈良時代に何があったんだ?」
という疑問、それを解く手がかりが「続日本紀」ですね。
このシリーズ、本当に楽しみです。

ツォータンさんへ
コメントありがとうございます。
> 思うに、編纂された当初の「日本紀」は、
> 九州王朝系の記事も堂々と掲載されていた
> けれど、ヤマト朝廷側の方針転換か何かで
> バッサリと削られて今の形(日本書紀)に
> なったのかなあ?
720年の日本書紀完成も
「日本紀」という名称ですし,
次回登場する708年の和同開珎も
「銀銭や銅銭」という言い方ですし,
「何か隠されている」という感じがします。
逆にそこが研究対象としては面白いわけですが。
> 「奈良時代に何があったんだ?」
> という疑問、それを解く手がかりが
> 「続日本紀」ですね。
> このシリーズ、本当に楽しみです。
そういっていただけるとありがたいです。
川瀬さんとともに,コメントで内容を
ふくらませて下さるとうれしいです。

今回、肥さんに触発されて奈良時代の大臣クラスの人物を調べていく過程で、『大鏡』に不思議な一文があることを知りました。

(前略)神武天皇より三十七代に当たりたまへる孝徳天皇と申すみかどの御代にや、ならびに八省百官、左右大臣、内大臣なりはじめたまへらむ。左大臣には安倍の倉橋麻呂、右大臣には蘇我の山田の石川麻呂・・・
・・・・(中略)・・・・
・・・内大臣には中臣の鎌子の連なり。年号いまだあらざれば、月日申しにくし(後略)。


ここにいう「内大臣」は日本書紀を信ずる限り「内臣」の誤りでしょうが、『大鏡』の作者は孝徳天皇の時代、
「年号はなかった」
と言っているようです。

この後、大友皇子や高市皇子のことなどが記述され、そして

・・・四十二代にあたりたまふ文武天皇の御時に年号定まりたり。大宝元年といふ。(後略)

とあります。
つまり『大鏡』の作者は

「大化」も「白雉」も「朱鳥」も知りません。文武天皇の時に「大宝」という年号が定まりました。

と言っていることになります。
『大鏡』のこの大臣序説の条は、大友皇子について天武天皇と混同していたりと、粗雑な部分があることは否めませんが、「大化」という年号を知らず、
「年号は大宝から」
と主張していることは重要だと思います。

ツォータンさんへ
コメントありがとうございました。
「大鏡」に年号開始についての
記事がありましたか。
それは素晴らしい!
さっそく何人かの方に
問い合わせてみることにします。

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