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2007年11月14日 (水)

遣隋使を送ったのは誰か?

先日朝日新聞に「遣隋使1号は600年?
607年?」という記事が載った。(11/10)

また,先日の古代史セミナー(11/10~11)や
昨日の歴教協所沢支部の例会(11/13)で
それを資料として持ってこられた方もいた。

そこで,私なりにこの問題の要となる
中国側の正史(公式の記録)=
『隋書』タイ国伝の構成について
書いておきたいと思う。
(倭国ではなく,タイ(倭とはちょっと違う字)国
と書く。ここでは原文尊重で倭国とはしない)

岩波文庫で500円も出せば買えるので,
遣隋使について語ろうとする方は
ぜひ『魏志倭人伝・他三篇』(石原道博編訳)を
手元に置いてほしい。

(1) タイ国の地理・歴史を書いてある。

(2) 漢の光武帝の時以来の朝貢や
 卑弥呼のことなどが書いてある。

(3) 倭王である阿毎・多利思北孤の政治など
 について書いてある。(彼が遣隋使の派遣者?)

(4) タイ国の政治のシステムについて書いてある。
 (解説は「冠位十二階」のこととしているが,
 推古紀のものとは順番が違う)

(5) タイ国の気候・地形・風俗・遣隋使など
 について書いてある。
 (庶民は裸足で生活していることや
 盟神探湯=くがたちの記事。
 また,特筆すべき地形としての阿蘇山。
 その直後に607年に派遣された
 遣隋使「日出ずる処の天子・・・」の記事)

(6) 翌608年の中国側の使者(裴世清)の派遣記事。

(7) 倭王が中国の使者を迎えた記事。
 しかし,「その後遂(つい)に絶つ」の記事。

私は古田武彦氏の多元史観を支持しているが,
たとえそうでなくても『隋書』タイ国伝を
すなおに読む限り,
タイ国のありかや政治の様子が
九州の地を背景としたものであることが
おわかりになることと思う。

従来「日出する処の天子・・・」の部分だけが
教科書や資料集に載せられてきたが,
それはあまりにも恣意的な載せ方だったのである。
事実の指し示すところ,九州の地に政権
(古田氏の言うところによれば九州王朝)を考えなければ,
後世の人に不審に思われるのではないかと思う。

なお,古田氏は遣隋使の派遣者が
聖徳太子ではなく,
九州王朝の多利思北孤であることを,
『失われた九州王朝』等で詳細に論証されている。
くわしくはそちらをご覧いただきたい。
(11/14)

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

 タイ国のタイは「イ(人偏)」に「妥」の字ですね。600年の遣隋使は「隋書」によると「開皇20年、倭王あり・・・」として姓は「アメ」名は「タリシホコ」号して「オオキミ」という倭王が使いを遣わしたという記事です。このあとに彼の国の制度や後宮の様子そして国土の様子などが書かれ、特記すべき山として阿蘇山が挙げられている記事です。この記事は日本書紀にはなく中国側の正史である隋書にしかないものでもあるので、大和王朝の遣使ではないことは明らかなわけです。
 日本書紀ではじめて大和王朝が中国に使いを送ったのは推古16年(608)。これは書紀本文によると「大唐」への遣使ですから608年の隋代の出来事ではなく一回りあとの619年の唐代のこと。書紀編纂の時点でこれが遣隋使であるかのように作為するために年代が移動されているわけ。
 このことは僕の「徹底検証新しい歴史教科書」で古代編10の注でこの問題を古田氏の論証に基づいて扱っています。

川瀬さんへ
コメントありがとうございました。
つまり大和王朝による「遣隋使はなかった」ということですよね。
九州王朝が2回(600年と607年)・大和王朝が0回というのが遣隋使の派遣回数の実際というわけ。
ぜひ皆さんに,古田氏の『失われた九州王朝』や
川瀬さんの『徹底検証「新しい歴史教科書」』(古代編)を読んでいただきたいです。

前回の書きこみに間違いがありました。
 日本書紀で大和王朝が中国にはじめて遣使したのは推古15年。これを607年の遣隋使のことだとしたのは書紀編者ではなく、現代の学者。書紀編者は「大唐」と明確に書いていますので、あきらかにこれは隋が滅ぼされて唐が出来たあとの話し。隋滅亡は618年。大和の遣使はこの翌年。619年。つまり現代の学者は一回り年代を繰り上げて推古15年の遣使が「遣隋使」だと解釈したわけ。
 大和王朝は隋には使いを送っていません。
 ただし日本書紀でも推古15年の遣使の記事が、有名な607年の「日出るところの天子、日没するところの天子に書をいたす・・・」で始まる国書をもたらした「タリシホコ」の遣隋使だと思わせる書き方はしています。正使小野妹子が「隋皇帝の返書は百済に奪われた」と釈明して返書の国書がなかったというくだり。隋書の記述と詳細に比べていない読者には、推古15年の遣使の記事と大業3年(607)の遣使の記事が同一と錯覚するような書き方はしている。でもこれは書紀の次の記事が否定します。
 書紀では中国の使者が「返書」を読み上げている記事が続きます。だから推古15年の遣使にはちゃんと国書があったわけ。
 この記事には推古15年の遣使と大業3年の遣使が別物だと言う事がわかるように書かれています。15年の記事は「大唐」への遣使と。そして皇帝の返書もあるし、返書での天皇の呼称が「倭皇」と成っていて「倭王」ではない。これは大和の王が「天皇」と名乗って遣使したことの証拠。さらに中国の使いは同一人物でもその官名が異なる。大業3年のときは「文林郎」、推古15年のときは「鴻臚寺の掌客」。書紀の編者は上官の命令に従って歴史を表向きは偽造しながらもちゃんとこれは偽造だよとわかるようにしたわけ。
 現代の学者は大和中心主義だから、書紀の表向きの嘘をそのまま信じて、書紀編者の努力を無にしたわけですね。
 大和は隋には遣使しなかった。唐の時代になって初めて遣使したというのが正しい歴史的事実です。

川瀬さんへ
コメントありがとうございました。
すると,日本書紀の編者の中にも歴史を正しく伝えようとする人がいたということになりますね。
それは九州王朝系の史家か大和王朝系の史家かはわかりませんが・・・。

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