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2007年10月21日 (日)

武家造

古代の倉庫は校倉造。
貴族の屋敷は寝殿造。
武士の屋敷は武家造。
室町文化で今の和室のもとになる
書院造が登場。

こんなふうに「~造」を習ってきた人が
多いのではないだろうか。

ところが現行歴史教科書では,
校倉造や寝殿造という言葉は載っておらず,
「武家造」も「武士の館」と変更されいる。
そして,その変更の説明はされていない。

歴史研究が進むにつれて
教科書の内容も変わっていくのは
いいことだと思うが,
重大な変更があった時には
その旨を書いておいたほうが
生徒たちの興味をひくような気がする。
(かつて使われていた何枚かの肖像画も,
歴史研究により掲載されなくなった)

歴教協の例会で小耳にはさんだところによると,
従来使われていた武家造の絵は
「一遍聖絵」や「一遍上人絵伝」で,
関東地方の武士の家を訪ねた時のもの
ということで武家造とされていたが,
よく調べてみると「筑前」の文字があり
九州の有力者の屋敷ということで
武家造から武士の館となったらしい。

そういうのを「エピソード」として書いておくか,
情報として教員に知らせてもらうと
さらに興味深い歴史が教えられると思うのだが,
間違っていたことを恥ずかしく思うのだろうか,
そのようなことはされていないようだ。

いつでもその時点の「正解」だけが
書かれているということになると,
入試はその「正解」だけが大切という
短絡な考えから暗記中心になる。
これは好ましいことではない。

限られた紙面の中で多くのことを
要求されていることもわかるが,
せめて「歴史はもう勉強したくない」という
生徒を大量生産しないためにも
教科書の著者と文科省に
お願いしておきたい。
(10/21)

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教育」カテゴリの記事

コメント

一遍上人絵伝にある武士の館の絵は、一遍が1276(建治2)年に筑前の国の聖達上人を尋ねたあと筑前の国を遊行していたときに出会った武士の館の場面でしょ。絵の前の詞書にも明記してあるし画面にもはっきりと「筑前」と書かれています。これを関東の武士の館と勘違いしたという話しは初耳ですね。間違えるはずのない資料です。たぶん武士というのが貴族とは独立した階級だと誤認していた戦後のマルクス主義的歴史観の所産だと思いますよ(歴教協はいまもこの歴史観を訂正していないから、こういう説明になっているのかもしれないが)。またこの絵を使って「武家造」と説明したという教科書があるということも初めて知りました。僕の記憶の限りでは僕が使った教科書にはそういうものはありませんし、「武家造」という言葉自体が初耳です。近年(といってもここ20年間のこと)網野善彦氏を中心とした中世史研究の中で、武士は貴族と別個の階級ではなくて貴族の抱える下人としてその武力として編成された人々(出身は多様であり、百姓も職人も海民も商人もいた)であり、その長自身は貴族で軍事を生業としたものであることが明らかとなっています(源氏・平氏・藤原氏などの上級貴族や清原・大伴・中原などの中級貴族出身の長がいましね)。だから武士の館は基本的には貴族の館と同じ作りであり、武士の文化は貴族の文化であり、鎌倉時代文化を武家文化とすること自体が誤りである事がわかっています。でも武士の記述や鎌倉文化の記述に近年の研究成果はまだ反映されていません(このあたりは僕の「徹底検証」の古代編と中世編で詳述して置きましたが)。教科書の記述は「その時点での正解」すら反映してはおらず、かなり恣意的で遅れたものだとおもいます。公費支給と言う事で儲けもほとんどなく、優秀な執筆陣を集めて作ることもできない今の検定教科書に期待するより、教師が学問の最前線を常に学び、教科書を訂正したり膨らましたりできるようにしていないといけないと思います。

川瀬さんへ
コメントありがとうございました。
今「冷や汗」をかいている次第です。

フリー百科事典『ウィキペディ(Wikipedia)』
には以下のように書いてありました。

「武家造(ぶけづくり)とは、鎌倉時代の武家住宅の様式と想定されたものである。実用性を重視し、簡素な造りであり、貴族文化に対抗した武家にふさわしい住宅様式と考えられた。
しかし、武家も元は貴族の出自を持ち、その邸宅も寝殿造を簡素化したもので、独自の様式とはしないのが、現在の通説である。(参考:太田博太郎「日本建築史序説」)
(付記:義務教育では今なお「武家造」と教えているようである。おそらく平安時代-寝殿造、鎌倉時代-武家造、室町時代-書院造、江戸時代-数寄屋造、というのが覚えやすいためと考えられる) 」

また,『わかってたのしい中学社会科歴史の授業』(大月書店)の「農村に生きる武士」の所には,「《武士の館が「武家造」だ》ということを生徒に確認する」などとあつて,さらに続けて「そのうえで,《この武士の館は堀があるので東日本のものであり,東日本には「堀の内」という地名があること,西日本は周囲すべてに笹をめぐらすので「垣内」という地名が多いこと》を生徒に投げかける。」などと書いています。
(執筆者は,小林朗氏)

> 公費支給と言う事で儲けもほとんどなく、
> 優秀な執筆陣を集めて作ることもできない
> 今の検定教科書に期待するより、
> 教師が学問の最前線を常に学び、
> 教科書を訂正したり膨らましたり
> できるようにしていないといけない
> と思います。

本当にその通りですね。
あらためてご指摘ありがとうございました。

つまりこの大月書店の本の著者に代表される歴教協系の人達が、一遍上人絵伝の武士の館の絵を関東の武士の館だと勘違いしたということですね。その理由は「館に堀がある」から。でも関東の平安から鎌倉の武士の館に堀があるというのも一般論にすると間違いです。堀のあるなしは、その館の立地する地形条件次第です。多摩地方のこの時代の武士の館あとは谷戸田を臨む台地の上か中腹にあるので、堀はありません。沖積平野の中の河川が作った微高地にある館は防衛上堀を掘って土塁を設けていますね。一遍上人絵伝の館は堀はあっても前面だけで土塁がありません。資料の実態をみないで「理論」だけで歴史を見ようとする悪い癖ですね。ちなみに近畿地方の垣内という施設も、しばしば廻りに堀を巡らした物が存在します。
 「武家造」を教えろとしている教科書は、日本書籍のものでしょうか。

川瀬さんへ
コメントありがとうございました。
それは,東京書籍の歴史教科書です。
今日社会科資料室で私も使っていた平成4年の歴史教科書(東京書籍)を見つけました。その82ページには「周囲に堀・土塁をめぐらした館をかまえ,板葺きで簡素な武家造(太字です)といわれる住居で,質素な生活をしていた。」という本文の記述があり,また83ページには一遍上人絵伝が載せられ「武士の屋敷」という解説(筑前国(福岡県)の武士の屋敷。板塀と竹林に囲まれ,その外がわには堀をめぐらしている。門の上には,たてや弓矢が備えてある。)が書かれています。この2つを見て,「武家造=一遍上人絵伝の「武士の屋敷」」と考えるのは自然のことのように思います。

東京書籍でしたか。東京書籍・日本書籍・大阪書籍、そして清水書院が例の「つくる会」からもっとも激しく非難された教科書(歴教協系)で、そのうちの清水書院は僕も使っていたので違うから、残りの3つのどれかだとは思っていました。たしかに東京書籍の教科書の記述は「武家造」=一遍上人絵伝の武士の館となりますね。しかし絵を詳細に見れば、この建物が寝殿造りの簡素なものであることは明白です。板敷きの大きな部屋の廻りに縁側があり、部屋と縁側の間はおそらくしとみ戸という取り外し可能な戸でし切られ、部屋の中にはしきりはなく、奥におそらく寝所となる畳みが置いてある。部屋を仕切るときは屏風を使うのでしょう。典型的な寝殿造りの家。高床の建物は古代~中世にかけては高貴な身分の人の家ですから。武士も高貴な身分だということです。庶民は古代~中世末・江戸時代始めまでは土間で暮らしていました。資料を先入観なしに見ることの大切さを示していますね。これは歴史学の方法論の基本。古田氏の研究方法の基本でもあります。この基本を忘れて先入観で資料を改ざんすることが古代史だけではなく中世史でも近世史でも行われてきたということです。歴史を学ぶときに注意しないといけない視点です。

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