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2007年9月 4日 (火)

喜界島に倭国の亡命王朝!?

鹿児島県に喜界島という小島がある。
そこの城久(ぐすく)遺跡から
驚くべき品々が発掘されて
関係者を驚かしているという。

私はその記事を「多元」紙(多元的古代
研究会・関東発行)で読んだのだが,
岡林秀明さんの文によると,
2007年6月22日付けの毎日新聞に
「本土も沖縄も大ショック」というコラム記事が
載っていたそうである。

何が「大ショック」なのかというと,
「出土品が異様にすぎた。
中国や朝鮮半島の青磁や白磁,
日本の東海地方や九州の陶器・・・・・・。
周辺の島や沖縄本島方面にはないものが
大量に見つかっている反面,
地元産の土器はほとんど出てこない」
というのだ。

また「4本柱の大型建物群や,
サンゴを敷いた長さ45メートルもある
道路など,これまた南西諸島では考えにくい
遺構も現れた」とのことである。

ここで古田武彦氏に学んで
多元史観という仮説を持っている人は,
ピンとくるのである。
もしかしたら,これは倭国(九州王朝)の
亡命王朝ではないかと。

7世紀の後半,倭国は白村江の戦いで
唐と新羅の連合軍に敗れ壊滅したのだが,
中国の『宋書』日本伝には
1026年,平安時代中期になっても
「太宰府が使いを送ってきたが,
上表文(政府の正式の手紙)を
持っていなかったので受け取らなかった。
その後も南方の商人に託して
朝貢の品を送り続けた」
という奇妙な記事が出ているのだ。

通説だったら「この記事は何かの間違い」
ということになるのだろうが,
多元史観に立ってみれば,
亡命王朝が密かに中国に使いを送り
交渉しようとしていたということになる。
その物証が出てきたというワケだ。

また,『三国史記』(朝鮮半島の歴史書)によると,
802年に新羅が倭国とよしみを結ぼうとしたが
うまくいかなかった,という記事が出ている。
これも『宋書』と同様に倭国滅亡後も
「倭国」があった(亡命王朝)という証し
ではないだろうか。

岡林さんも書いているが,
亡命政府の例を私たちは東アジアに知っている。
台湾である。
だから,1000年前のこの話も,
「そんなことはあれえない」
と簡単に否定することはできないだろう。

まだまだ慎重に調査を進める必要があるが,
遺跡の出現時期(8世紀~)も
ピタリ合っているし,出土物の異常さも
亡命王朝ということから考えれば自然のことだし,
「私たちは有力な物証を得た」と考えて
いいのではないだろうか。

古田武彦氏の本では,
『失われた九州王朝』(朝日文庫)が
この話題とピッタリなので,
ぜひこの機会に読んでいただければと思う。
(9/4)

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

喜界が島の異様な遺蹟の記事。毎日新聞で僕も読みました。なるほど倭国王朝の亡命政権ね。これは説得力がありますね。8世紀ですか。たしかこの時期に大和王朝は九州南部や南島に「鎮撫使」を送っていますね。そしてそれに逆らったとして討伐を受けた南九州の隼人の人々は、「評」のついた官職名を持っていた(僕の本の古代編の【15】の5に詳しい)。そして続日本記にはその「鎮撫使」はさらにその南の島々の鎮撫にあたったと書かれています。
 僕がこの喜界が島の記事に注目したのは、平家物語に出てくる鹿ケ谷の陰謀で流罪となった俊寛など3人が流された場所が、定説の硫黄島ではなく、文字通りの鬼界が島(喜界が島)ではなかったかということ。高位高官の人を流罪にするとき、硫黄島のような人家の稀な離島にするわけはなく、国府などの役所の所在地に幽閉するのが通例。もし喜界が島に亡命政権があったとすれば、昔から南島諸島を統治する倭国の役所があっただろうし、亡命政権が滅びて以後も、大和の統治機関が置かれていただろう。今の平家の鬼界が島の記述は、喜界が島に南島諸島の統治機関が置かれたことが歴史の闇に消えた室町時代になって出来あがった脚色されたものだと僕は思っています。

川瀬さんへ

コメントありがとうございます。
「善光寺炎上」に登場する九州年号「金光」に続き,
俊寛らの鬼(喜)界が島でも,
平家物語と古田史学は接点がありましたね。
まだいろいろ出てくるかもしれません。
アンテナを高くしていたいです。
今後ともよろしくお願いいたします。

はじめまして。
和歌の勉強をしていて、たどりつきました。
私も古代史がすきなのでの、今後ともよろしくお願いします。

降龍十八掌さんへ
コメントありがとうございます。
> 和歌の勉強をしていて、たどりつきました。
私も古代史がすきなのでの、今後ともよろしくお願いします。
こちらこそよろしくお願いいたします。
お気軽に書き込んで下さい。

肥さんのこの「喜界島に倭国の亡命王朝!?
」を読んだ時、「桃太郎」の話がチラと頭をよぎったのです。
その時にレスしておけば良かったのにそのままにしてしまい・・・忘れてました(笑)

私は常々桃太郎伝説は、「桃」を神とする集団が、キジや犬を神とする集団と連合して、「鬼」集団をうち破ったのではないか、と考えていました。
そして「鬼」を神とする集団として倭国=九州王朝に比定していました。

つまり吉備王朝が他の勢力と連合して九州王朝を打ち破ったのではないか、と。

ただ根拠が薄かったんですよ。鬼集団=倭国の根拠にしても、斉明天皇の葬儀の際、鬼がじっとその様子を見ていた、とか、鬼前大后、鬼ノ前、鬼ノ内といった名称の存在程度でしたから。

しかし喜界島に倭国の亡命王朝があったと考えたら、この「桃太郎が鬼ヶ島へ鬼退治に行った」という話はとても興味深いものになるのではないでしょうか?

このような考察、誰かがすでに発表していそうな気がするんですが・・・(笑)

源田実は好きだけどさんへ
コメントありがとうございます。
桃太郎(吉備勢力)が
家来たち(他の勢力)とともに
鬼(九州の亡命王朝)退治ですか。
それは初めて聞きました。
喜界島の遺跡の件と関わって,
なかなか面白い仮説だと思いました。
その場合,派遣者は「大和勢力」
ということになるのでしょうか。

先日ちょっと永井路子女史の「この世をば」を読み返していて、以前は見逃していたことがあったことに気づきました。
それは「長徳の入寇」といわれている事件です。
この事件は平安時代にたびたび起こっていた「外国からの日本侵略事件」のひとつで、有名なのは「刀伊入寇」ですね。

ところで私は恥ずかしいことにこの「長徳の入寇」について、刀伊入寇とごっちゃになっていて「外国からの侵略」であると記憶していたのです。

いまあらためて「この世をば」を読み返してみると、どうやら長徳三年に九州に攻め入ったのは、藤原実資の日記『小右記』や藤原行成の日記『権記』などによると

「奄美島人」

らしいのです。現在これは「高麗が主体となって攻めてきた」と解釈されることが多いそうですが。

当時の貴族が「奄美島人」と記したソースは大宰府からの飛駅をもとにしたもので、いったい何者だったのか?
いったい何が目的だったのか?
どうして攻めたところが筑前・筑後・薩摩だったのか?

それを考えると、やはり、「喜界島の亡命王朝」に行き着かざるを得ませんね。

ツォータンさんへ
コメントありがとうございます。
「奄美島人」ということなら,
普通に考えれば高麗ではなく,
「奄美大島の人」ですよね。
喜界島はその周辺の島ですから,
「喜界島の亡命王朝」が九州を攻めたという
新しい解釈が可能なように思いますね。

 ネットで長徳の入寇を検索しましたら、ウィキペデアに次のような説明がありました。(以下引用)

長徳の入寇
南蛮の入寇とも。『百練抄』長徳三年(997年)10月1日、四年2月の条にみえる高麗国人の九州「虜掠」と征伐の記事。

『百練抄』にはすべて「高麗国人」とあるが、『紀略』は南蛮の賊、奄美島人という『小右記』にみえる報告書の説を採って統一している。現地でも混同があったようだ。『紀略』では三年11月に南蛮の討伐を、翌9月には鬼界ヶ島(硫黄島)に命じて南蛮の捕縛を求めたという。南海の法螺、夜光貝、硫黄などは日本の重要な交易物であり、薩摩が被害地に加わっていることから出入りの多い南蛮以外に考え付かなかったのだろう。

被害の全容が筑前筑後薩摩壱岐対馬、と報告されているところから見ても奄美島人の単独行為とはおもわれない。数百人の拉致も前例がない。寛平の韓寇と酷似しているほか、長保3年にも高麗人の海賊行為が見られる。あるいは南海産物の横流しを高麗の海賊が密航のうえ持ちかけたために南島人がとばっちりをうけたとも考えられる。

 気になるのはここに、「喜界島に命じて南蛮の捕縛を命じた」という部分です。「紀略」にこうあるということは、喜界島に平安王朝の出先機関があったということになります。括弧書で「硫黄島」とありますが、活火山の無人島に出先機関があるはずもなく、当時の人も混同していたか。やはりいまの喜界島でしょう。喜界島の例の遺跡の年代からはすでに2世紀ほど経っていますので、状況は変化しているのでは。
 根拠がしっかりしていないかぎり、何でも亡命王朝に結び付けないほうが良いと思います。

えーと、川瀬さんのおっしやる「根拠がしっかりしていないかぎり、何でも亡命王朝に結び付けないほうが良いと思います」
ということは、私も普段から肝に銘じています。(亡命王朝を九州王朝と入れ替えてもらってもOK)
私がとくに小右記のこの項目を重視したのは、この日記の著者である藤原実資は当時従三位中納言。
「大宰府からの飛駅」がもたらした解文(報告書)を実見し参議に列席して発言する立場にあった人物だからです。
また同じくこの事件を記している「権記」の著者である藤原行成は蔵人頭。彼が報告書を実見したかどうかはわかりませんが、少なくとも「実見した人たち」による参議での決議を天皇に奏上し、裁可を仰ぐ立場の人です。

そしてこの時、大宰府から朝廷に飛駅を送った人物は大宰大弐藤原有国。関白兼家が頼りとした能吏(彼は右大弁・蔵人頭を歴任している)がこの時大宰府の事実上のトップとして事の次第を采配し、事件の解決に当たっていたわけです。
つまり、実資が日記に記した「奄美島人」というのは、有国がもたらした報告書に書かれていたことで、当然、有国も現地でことの調査に当たった結果、そう断定したものと考えざるを得ません。

現実的な話、「高麗人の襲撃」と「奄美島人の襲撃」は、その当地で実際に襲撃を受けた側なら区別がつくと思うんですよ。言葉ひとつにしたって、奄美島人なら言葉もかなり通じるでしょうし・・・。

私はこの事件に関する限り、第一資料は「紀略」ではなく「小右記」「権紀」の方ではないのかな? と思うのですが、どうでしょうか。

ちょっと私自身かなり興味がわいてきたので、この紀略の「喜界島に命じて南蛮の捕縛を命じた」という部分も含め調べてみたいと思います。

おっしゃるとおり、この事件に関する第一資料は、事件の100年後ぐらいに編纂された後世の編纂史書である日本紀略ではなく、同時代の高級官僚でことにあたった人々の記録である、「小右記」「権紀」です。そこに「奄美島人」とあればここに依拠して考えねばなりません。
 ではこの二つの第一次資料には、朝廷はどういう対策を取ったかが如何に記されていたかが問題になります。そこには日本紀略に書かれた喜界島が出てくるのか来ないのか。出てくるとすればどう扱われていたのか。ここを調べてみる必要がありますね。日本紀略の方が、この事件の本来の主役であった喜界島の亡命政権を、南蛮人に対する平安王朝側の討伐の拠点にすり替え、討伐される対象を、奄美・喜界島を含む九州王朝の亡命政権(これを総称して南蛮人でしょうか?)から、高麗人にすりかえた可能性がありますね。
 面白いテーマですので是非この二つの原資料に当たって確認して追求してみてください。

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