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2007年2月21日 (水)

私にとっての『「君が代」は九州王朝の讃歌』

古今和歌集に「君が代」のもとになった歌がある。
「我が君は千代に八千代にさざれいしの
巌(いわお)となりて苔(こけ)のむすまで」てある。
題知らず,読み人知らずの歌だ。

古今和歌集には,題知らずや読み人知らずの
歌が約3分の1もあるのだが,
この歌もその1つ。

そして,この「君が代」は九州王朝で生まれた
と言ったら,読者の皆さんは
きっと驚かれるに違いない。
古田説に親しんでいた私も
まったく「晴天のへきれき」だったのだから。

千代・・・福岡市の中心街の地名
細石(さざれいし)・・・細石神社がある
巌(いわお)・・・井原(いわら)という地名あり
苔のむすまで・・・桜谷神社に苔むすめの神あり

31文字の歌の中に,福岡県の狭い範囲内の
4つもの地名や神名として登場している。
これは果たして偶然なのだろうか?
いや,偶然とはとても思えない。

また,金印の出土地で知られる志賀島。
そこで行われる祭礼(山ほめ祭という)では,
セリフとして「君が代」が出てくる。
そのストーリーはこうだ。

めでたい祭りの最終日。
ついに我が君(安曇の君)が志賀島に
お出ましになる・・・と。
その時に語られるのが,
あの「君が代」なのであった。

この「君が代」の存在は,
九州王朝の仮説にとって
大変重要なものである。
たとえ,法律で「君が代」が国歌になろうとも,
その自出が北部九州であること。
その一点は変えようのない事実なのである。

この連載も明日で12回目となります。
そこで,最後に私と古田史学とのかかわりを書いて,
しめくくりとしたいと思います。
(2/21)

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コメント

君が代が九州王朝の讃歌だったとは。僕もびっくりしました。でも古田氏の論証は緻密であり、なっとくしました。
 志賀の島のわだつみ神社の祭礼の最後に、「我が君」が島に向かって船を漕ぎ出してくる場所が「千代の松原」だということも、興味深い指摘でしたし、この歌に出てくる細石やこけむす神が、九州王朝に先行する、縄文期や弥生初期の北九州における中心的信仰を取りこんだものという指摘も納得できました。新来の権力は在来の権力の権威を吸収するために、在来の権威を取りこむものだからです。
 僕にとってもう一つ興味があったことは、君が代が古今和歌集に再録されたということ。これは、平安中期の京都貴族が、九州王朝の滅亡史を知っていたのではないかということを暗示しています。きっと天皇家や貴族にとって、大和王朝だけが日本列島の王者ではなかったという事実は、長く記憶されたのだと思うのです。これが資料で論証できると面白いですね。歴史の興味は尽きません。

川瀬さんへ
コメントありがとうございました。
平安時代から7世紀末・8世紀初頭はわずか100年ですから,当然違う王朝が支配していたということはわかるし,隠そうとしたでしょうね。
古今和歌集で「読み人知らず」が3分の1あるというのも臭いし,日本書紀の講読もみえみえの感じがします。また,空海だったか最澄だったか,太宰府に着いたのと大和に帰国したのを区別して考えているというような史料もあったと思います。

先ほど調べたら,上記の話は『市民の古代・第13集』(1991年11月発行)の古賀達也氏さんの論文「空海は九州王朝を知っていた」でした。「御遺告」という史料を扱っていて,太宰府へは「着岸」,大和へは「帰国」となっているようです。つまり,太宰府まで戻ってきたもまだ「帰国」したとは思っていないということのようです。

素直に読めば、「亡くなった磐井の大君が、大きな古墳にお入りになって、私共をお見守りくださいね、これからずっと」となりませんか?君が代の意味は。
昔は、精神的に強い人が「あの世へ行って神になる」とか、現世の地続きで考えられていたので。
ソレを年々お祭りするのは、ソレはソレで律儀で立派な事ですよ。
けど、古代人も死者と生者の違いが判らない程、とぼけたトコがあるとは思いません。
船に関しては、沖縄の祭祀も参考に考えると良いと思います…。

田仁さんへ
コメントありがとうございます。
> 素直に読めば、「亡くなった磐井の大君が、
> 大きな古墳にお入りになって、
> 私共をお見守りくださいね、
> これからずっと」となりませんか?
> 君が代の意味は。
どの辺が「磐井の大君」「大きな古墳」
「私共を見守る」になるのでしょうか。
くわしく解説していただけませんか?

空海が帰国するに当たって、必ず通ったと思われる地に「門司」がありますね。
「門司」などという地名が自然派生したとは到底思えないので、これは門司と呼ばれる役職名が存在したか、あるいは門司と呼ばれる司令部が存在したか、のどちらかと思われます。
つまり、関門海峡を軍事支配し検閲していた司令官は門司-九州側に存在していたことに他なりません。
逆に言えば、大和朝廷側は太宰府に使者を送る時、「門司の司令官の検閲を受ける側」だったことになります。
(検閲する側だったら下関側に司令部を置くはず)
空海の時代に「門司」と呼ばれる九州王朝の司令部が存続していたかどうかはわかりません。しかし小野妹子や南淵請安など大和朝廷から中国へ向かった使者たちは、必ずや門司に立ち寄るか使いを送るかして、司令官の許可をもらってから関門海峡を通過していったはずだ、と私は考えています。

○司、○○司といった地名・役職名を調べてみるのもおもしろいかもしれませんね。

源田実は好きだけどさんへ
本当に「門司」という用語はあやしそうです。
太宰府には「蔵司」という倉庫跡がありますし,
きっと九州王朝の役所の呼び方に
「○司」があったのではないでしょうか。

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