2019年8月18日 (日)

平林浩さんの講演会に行く予定です

平林浩さんの講演会に行く予定です。

平林さんは元私立小学校の先生で,

仮説実験授業のスタートから関わってきた方です。

退職後も「出前授業」を行うなど,多岐にわたる活動をなさっています。

『たのしい授業』誌にも「アイスランド紀行」を連載中。

演題は,「私の教師像」。さて,どんな話が伺えるかな?

『世界の大富豪2000人がこっそり教えてくれたこと』

トニー野中著,王様文庫,600円+税の

上記の本を買ってきた。

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プロローグ 97パーセントの人が知らない事実~ここから人生は変わり始める

第1の秘密 生き方~大富豪にむなるための条件を明かそう

第2の秘密 仕事~君は,何のために働いているのかい?

第3の秘密 お金~大切にするから,信じられないほどお金にモテるんだ

第4の秘密 富をふやす~働かないでも,お金が入ってくる仕組みを持つんだ

第5の秘密 時間~大金を稼ぎつつ,“自由な時間”もたっぷりあったら最高だろう?

第6の秘密 大好きなことをする~仕事,旅行,遊び……時間をつくるのはこんなに簡単!

第7の秘密 人間関係~恋人,友人,家族,メンターは,かけがえのない財産だよ

第8の秘密 人間的魅力をつける~ハイレベルな人から一目おかれるコツを教えよう

第9の秘密 運命の人~10年後も変わらず,その人を愛していると思うかい?

第10の秘密 心と体~一生,元気でパワフルに,人生を楽しまなきゃね!

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私は,この本を読んで「大富豪」になろうとは考えていません。

が,「大富豪」から柔軟な発想の仕方は学びたいとは思っています。

それで,648円を投資した訳です。

楽天が投打とも振るわず53敗目

楽天が投打とも振るわず53敗目を喫した。

楽 天000001000計1

日ハム10300110×計6

菅原・小野・辛島・青山・高梨ー太田・足立

菅原1勝3敗

投手が四球がらみで失点をし,打線も2安打では,

まるで日ハムのための試合をしているようだ。

今日はぜひ,楽天ペースの試合をお願いしたいものだ。

2019年8月17日 (土)

肥さんは,河川敷に草刈りに行きました

もう枯渇しているのに河川敷と呼ばれ,

河川敷なのに(だから?)草だけはどんどん生える土地を抱えている。

その草をたまには刈ってやらないと大変なことになるので,

台風も過ぎ,まだ日が高くならないうちにひ小一時間刈ってきた。

蚊に何匹も追いかけられながら,草を刈っていくと大粒の汗が噴き出してくる。

そういう意味では,い一石二鳥のダイエット方法かも。

「まあ今回はこの辺で」という感じで終了しました。

【写真と解説】

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目障りにならない程度に隣の家の塀よりは下に切りました。

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こちらはだいぶ片付きました。

『南相馬に躍動する古代の郡役所・泉官衙遺跡』P80~89

川瀬さんのお求めのページは,ここでいいでしょうか?

またまた写真でお届けします。

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今夜の月 8/16

午後9時過ぎ

月齢15.4くらい

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さて、十六夜と書いて、なぜ「いざよい」と呼ぶのか
その由来は、「猶予う(いざよう)」という言葉にあります。

いざようとは、躊躇するという意味の古語で、十六夜の月は、満月の十五夜の日より、周期の関係で50分遅くれで現れます。

その遅れている様を、「躊躇しながら出てきている」と擬人化して「猶予いざよいの月」→「十六夜(いざよい)の月」と呼んだんですね。

十六夜の読み方

ちなみに、十六夜はいざよいと読むと言いましたが、そのまま「じゅうろくや」とも読みます。

また、十六夜の月は別名で、既望(きぼう)とも呼ばれています。

ちなみに、この言葉の語源は、
「既に満月(望月)を過ぎてしまった」という意味を持っています。

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※ ウィキペディアより 『十六夜日記』

『十六夜日記』は、藤原為家の側室・阿仏尼によって記された紀行文日記。中世三大紀行文のうちの一つ。

内容に所領紛争の解決のための訴訟を扱い、また女性の京都から鎌倉への道中の紀行を書くなど他の女流日記とは大きく趣きを異としている。

 

ホテイアオイの花

今までホテイアオイを60年間見てきたが,

その花が咲いているのに初めて出会った。

酒処「まこ」のメダカの水槽である。

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※ ウィキペディアより

ホテイアオイは、単子葉植物ミズアオイ科に属する水草である。

南アメリカ原産で、水面に浮かんで生育する。

花が青く美しいので観賞用に栽培される。

別名ホテイソウ、ウォーターヒヤシンス。

福岡県の〈官衙遺跡〉の精査結果とまとめ(川瀬さん)

「福岡県の「長いトンネル」を越えると,そこは大分県だった」と川端肥さんは,

この1か月の苦しき日々を振り返っている。

最後に,川瀬さんがまとめを書いて下さったので,精査結果とともにアップしてみる。

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【筑前】

~6世紀半ば・・・鹿部田渕(西),練原(西)

6世紀後半・・・比恵(東),柏原遺跡群柏原M(東),黒山遺跡群(西)

7世紀初頭・・・杷木宮原(西)

7世紀前半・・・尾崎・天神(東)

7世紀半ば・・・

7世紀後半・・・大宰府・政庁Ⅰ(正方位),阿恵Ⅰ(西),那珂遺跡群(東→正方位),井尻B遺跡群(東→正方位),

  鴻臚館(北館はやや西。南館はやや東),小郡官衙Ⅰ(東),城田(東),堂原(東),大迫(正方位。砦か),

  志波岡本(東),志波桑ノ本(東)

7世紀末葉・・・阿恵Ⅱ(東)小郡官衙Ⅱ(東),有田・小田部(東・正方位・西)西は「孝徳の難波長柄豊崎宮」か,

  (7世紀末葉~8世紀中頃)

8世紀初頭・・・大宰府・政庁Ⅱ(正方位)大宰府・条坊(正方位),都地(東),八並(西),内橋坪見(西)

8世紀前半・・・2つの大宰府・客館(正方位),阿恵Ⅲ(東),鴻臚館(北館も南館も,ほぼ正方位),三月田(正方位)

8世紀半ば・・・阿恵Ⅳ(西),小郡官衙Ⅲ(正方位),麦野(西),下遺跡群小倉(東)

8世紀後半・・・吉崎(西),柏原遺跡群柏原M(西),城田(東),井出野(西)「斉明の朝倉橋広庭宮」, 

  宮野脇(西),八並遺跡群(東)

8世紀末葉・・・

9世紀以降~・・・大宰府・政庁Ⅲ(正方位),湯納(西),清末(西),田村遺跡群(西),野芥(ほぼ正方位),

  東入部遺跡群(東),波多江(西),竹戸(西)

 

※ 才田・・・7~8世紀(東・正方位),11~13世紀(東)

 

【筑後】

~6世紀半ば・・・

6世紀後半・・・

7世紀初頭・・・

7世紀前半・・・

7世紀半ば・・・筑後国府先行Ⅰ(東)

7世紀後半・・・筑後国府先行Ⅱ(東・正方位),ヘボノ木・南地区(正方位),上岩田西(西)

7世紀末葉・・・筑後国府Ⅰ(正方位),上岩田(東)

8世紀初頭・・・上岩田(正方位),下高橋官衙・正倉院(正方位),下高橋官衙・官衙(東)

8世紀前半・・・上岩田(西)

8世紀半ば・・・道蔵(東),野瀬塚(東・正方位~9世紀中葉),ヘボノ木・中央地区(正方位)

8世紀後半・・・筑後国府Ⅱ(西),道蔵(正方位),ヘボノ木・北地区(東),下高橋馬屋元(西)

8世紀末葉・・・

9世紀以降~・・・筑後国府Ⅲ(10世紀・西),道蔵(西),黒土・新替(正方位)

 

【豊前】

~6世紀半ば・・・

6世紀後半・・・下唐原伊柳(東)

7世紀初頭・・・

7世紀前半・・・

7世紀半ば・・・豊前国府(Ⅰ期ほぼ正方位),フルトノ(西)

7世紀後半・・・大ノ瀬下大坪Ⅰ期(東),池ノ本(東)

7世紀末葉・・・福原長者原官衙(東),ハカノ本(東)

8世紀初頭・・・

8世紀前半・・・大ノ瀬下大坪Ⅱ・Ⅲ(東)

8世紀半ば・・・大ノ瀬下大坪Ⅳ(西),豊前国府(Ⅱ期わずかに西)    

8世紀後半・・・古川西(東)

8世紀末葉・・・

9世紀以降~・・・豊前国府(Ⅲ期わずかに西)

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肥沼さんへ

 

 集計お疲れ様でした。精査結果をまとめてみると、いろいろなことがわかりますね。
※まとめ
1:筑前で見ると、東偏の出現実年代は5世紀後半。豊前も同じ。
正方位の出現実年代は筑前で見ると6世紀後半ないしは6世紀末。この正方位出現時期は、筑後も豊前も同じ。
 この地域も編年が100年後ろにずらされていることを確認。さらに太宰府政庁遺跡で、Ⅲ期は焦土層の上に建てられていることから、藤原純友の乱(940年頃)で焼かれたのはⅡ期政庁であり、其の後再建されたことがわかる。Ⅲ期の編年は10世紀中ごろ以後なので、土器や瓦による編年で畿内に比べて100年年代が下げられていたのは、9世紀までだということが確認できる。つまり平安時代の初めごろまで。
※2:筑前の7世紀後半から8世紀中頃、つまり実年代が6世紀後半から7世紀中頃の有田・小田部(東・正方位・西)の中の西偏官衙は、年代からみて、孝徳の難波長柄豊碕宮である可能性が高い。
※3:筑前の8世紀半ば、つまり実年代7世紀半ばに、それ以前の東偏官衙から大規模な正方位官衙へと建て替えられた小郡官衙遺跡は、年代から見て、書紀孝徳紀に見える、小郡屯倉を宮へ建て替えたその宮だと考えられる。
※4:筑前の8世紀後半、実年代は7世紀後半に、それまでの西偏官衙をさらに大規模に改造した井出野遺跡は、その場所と年代から、斉明紀に出てくる朝倉広庭宮と考えられ、その周辺に実年代6世紀後半から7世紀後半にかけて存在し、東偏40°または西偏40度で作られた官衙群(志波岡本(西)・志波桑ノ本(西)・八並遺跡群(西)・宮野脇(西))は、朝倉広庭宮を防衛するために作られた砦群と見られる。
※5:筑前の太宰府遺跡。7世紀後半(実年代6世紀後半)に後の政庁の位地に正方位の官衙群が作られたのが最初で、この時期は周辺の官衙は東偏であった。これが7世紀末(実年代6世紀末)から8世紀第一四半期(実年代7世紀第一四半期)に正方位の掘立柱建物群が建てられ(Ⅰ期)、これが8世紀第一四半期以後(7世紀第一四半期以後)に、正方位で礎石建て瓦葺で中国の朝堂院様式で大極殿を備えたものに建て替えられた(Ⅱ期)。この時期に太宰府条坊も作られ、他の官衙群も正方位に作り変えられた(ただし大部分は掘立柱)。政庁はそのまま正方位の礎石建物群で維持されたが、他の官衙は、8世紀中ごろ以後(実年代7世紀中ごろ以後)は次第に東偏に戻って行き、11世紀になると政庁も官衙もみな東偏へと移行していった。

 

では大分県の寺院遺跡の精査を続けましょう。

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2019年8月16日 (金)

標準的な体重の人よりも“ちょいデブ”の方が健康的?

私にとっては喜ばしい話題がサイトに出ていた。

今ダイエットをしていて,「ちょいデブ」に差し掛かってきたので,

ここにアップしておこう。

これでも昔は「標準体重」の人間だったのだが,

(母は,私に大学に入学した時の体重をなぜか覚えている)

学校の先生となり,中学生といっしょに給食を食べているうちに,

今のような体形となった。

【標準的な体重の人よりも“ちょいデブ”の方が健康的?】

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190519-00040681-otonans-life

奈良文化財研究所のデータベースにおける九州各県の遺跡数

ようやく九州の最初の県である「福岡県」を終えられそうだ。

さすが九州王朝の中心地らしく古代の遺跡が多い。

奈良文化財研究所のデータベースでグラフを描いてみることにした。

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(1)福岡県(寺院55+官衙106)●●●●●●〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇

(2)大分県(寺院16+官衙31) ●●〇〇〇

(3)宮崎県(寺院3+官衙9)   ●〇

(4)鹿児島県(寺院8+官衙15) ●〇〇

(5)熊本県(寺院21+官衙24) ●●〇〇

(6)長崎県(寺院5+官衙9)   ●〇

(7)佐賀県(寺院56+官衙11) ●●●●●●〇

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やはり福岡県がダントツだ。1か月掛ったのもうなづける。

 

«泉官衙遺跡は「貞観地震」に遭っているのか?(2)

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